翻訳資料『スターリンとドイツ共産主義』 ルート・フィッシャー著 / 掛川徹 訳
 
原著『 Stalin And German Communism− A Study in the Origins of the State Party− 』
  Ruth Fischer (著)、初版1948年
 
 
【ルート・フィッシャー邦訳(部分)】
(註:この邦訳はルート・フィッシャー『スターリンとドイツ共産主義』の荒訳です。種々の時間的制約からスターリン主義の発生と左翼反対派の敗北に関係が深いと思われるところから訳しました。物量的事情から中途になっておりますが、スターリン主義の発生レベルでの事実を確認し反スターリン主義論と党組織論をより深化させるために公表させていただきます。また、ともに翻訳完成まで協力していただける方を募集しています。)

『スターリンとドイツ共産主義』目次
 
(1)ドイツ共産主義の起源
第1章、第1次世界大戦にたいする抵抗
社会民主党と戦争
リープクネヒトとルクセンブルク
ルクセンブルクVSレーニン
第2章、ブレヒト・リトフスク
別々の平和
左翼共産主義
スパルタクスとブレスト・リトフスク
第3章、1918年ドイツ
キールにて
ベルリンの11月9日
労働者評議会
ドイツ共産党の設立
グスタフ・ノスケ
血の1月
第4章、内戦の日々、1919−1920
フライコープと民族ボリシェビズム
レーニンVS民族ボリシェビズム
ワイマール共和国とコミンテルンの設立
バヴァリア評議会共和国
ハンガリー・ソビエト共和国
ムッソリーニの登場
第5章、カップ・ルトヴィッツ一揆
地下のドイツ共産党
士官の反乱
カール・レジエン
ドイツの赤色パルチザン
一揆の影響
第2回世界大会
ハレ大会のジノヴィエフ
第6章、新経済政策への道
工業の国有化
赤軍と党
民主集権制
戦時共産主義と労働組合
クロンシュタット蜂起
第7章、合同共産党
党機構の建設
3月行動
ドイツ版ネップ?
レーニンとの討論
(2)民族ボリシェビズム
第8章、賠償危機
現物賠償
工業的植民地ドイツ
第9章、カール・ラデック
ドイツ革命の大衆の中で
ブランドラー・タールハイマーとの連合
第10章、ライプチヒ共産党大会
1922年組織報告
ザクソニーとチューリンゲンの赤色連合
第11章、ロシア党の後継争い
スターリンが書記長になる
党指導についてレーニンの遺書
レーニンの最後の政治声明
レーニンがスターリンと絶縁
第12章、ルール占領
受動的抵抗
エッセン国会
クルップ事件
モスクワ協議会
ラデックが国防軍クーデターを当てにする
第13章、シュラゲーター政策
シュラゲーターの演説
トルコの民族ボリシェビズム?
ロシア・ドイツ同盟
ナチズムの先駆
(3)1923年の共産党蜂起
第14章、クーノ・ストライキ
ゲスタチオンの内戦
工場評議会VS労働組合
造幣局ストライキ
第15章、蜂起の準備
ブルガリアはドイツではない
モスクワの秘密会議
ドイツ赤軍の青写真
党の全面的動員
第16章、ドレスデン、ハンブルグ、ミュニッヒ
ザクソン内閣のブランドラー
チェムニッツ協議会
ハンブルグの大失敗
カール・ルーデンドルフの陰謀
第17章、ドイツ敗北のロシア党への影響
トロツキーが政治局と絶縁
マスローの派遣
スターリンとの討論
コミンテルン司令部での POST MORTEM
10月の教訓
(4)移行の時代
第18章、左翼共産主義とドーズ案(翻訳済み)
アメリカの申し出
マヌイルスキーのベルリン派遣
共産党フランクフルト大会
第5回世界大会
国会がドーズ案を受諾
第19章、ヒンデンブルグ選挙(翻訳・一部)
帝政派の再興
「共和国防衛」
大統領候補テールマン
帝国連合の安定化
第20章、ロシア外交政策VSコミンテルン(翻訳済み)
ジノヴィエフ書簡
エストニアでの冒険
ブルガリアの最終楽章
第22章、一国社会主義(翻訳済み)
ブハーリンの新ネップ
国有工業は社会主義か?
第14回大会について個人的覚書き
(5)国家党の設立
第23章、ドイツ党のスターリン化(翻訳済み)
ウルブリヒト―ピーク体制
GPU統制下の党ヒエラルヒー
第24章、国防軍と赤軍
ドイツ経済の安定化
皇太子をexpropriateするか?
1926年ドイツ・ロシア条約
ロシアの工場がドイツを再武装
第25章、トロツキーとジノヴィエフが連合を形成(翻訳済み)
ブハーリン、ジノヴィエフとの会話
スターリンがコミンテルン候補を点呼
英ロ労働組合連帯委員会
森の中の集会
スターリンが反対派の党的合法性を剥奪
第26章、連合の敗北(翻訳済み)
スターリンと蒋介石
ストライキすべきか否か
第4インターナショナル?
トロツキーの中央アジア追放
国際左派がベルリンで会合
第27章、アジ・プロ:宣伝と扇動
赤色戦線兵士同盟
ウィリ・ミュンツェンベルグ
ベルト・ブレヒト、GPUの吟遊詩人
Die Massnahme
(6)要約と結論
第28章、要約と結論
 
 
 
 
 
 
 
第4部 移行期
第18章 左翼共産主義とドーズ案
アメリカの申し出(略)
マヌイルスキーのベルリン赴任
1923年10月以来、共産党を非合法とする非常事態令が1924年3月に解除され、カール・ヤレス内相(後に1925年の選挙で民族主義派の大統領候補となった)がゼークト将軍に取って代わった。これに伴って党生活は容易となり、以前の状態に戻る準備がなされた。
 党員数は1923年9月の26万7000人から1924年4月には12万1,394人へと減少したが、これは主として革命的カードル層が党の無気力に反発した結果だった。党の新聞購読者はおそらく党員の2倍いた。非合法時代、何らかの偽装を施した党文献は地方支部に小包便で配達された。最大の成功例は歌集で、30万部が印刷された(2)。エッセンでは、フランス占領当局が党の書籍販売所にあったすべての文献を没収した。「ブレーメンなどいくつかの都市では、警察が市場で文献を焼いた」(3)。
 この非合法時代にドイツ党内で反モスクワ的傾向が成長するのを、ロシアの政治局は不安げに見ていた。1922年、ジノビエフはアウグスト・クライネ・グラルスキをベルリンに送り込んだ。彼はロシア党の統制下にありながら、ライプチヒ大会ではドイツ党の政治局に選出されていた。1923年10月に彼はブランドラーの下を去って中央派を形成した。その主要なメンバーはハーマン・レンメレ、ウィルヘルム・ケーネン、ワルター・ウルブリヒト、ワルター・シュテッカーだった。このグループの主要な中央委員がモスクワ支配のもっとも優秀な最前線部隊となるはずだった。中央派の実質的な議長で、2つの党に所属していたグラルスキは、モスクワの操作をドイツ党内でもっとも容易に実行する地位にあった。グラルスキを事実上ドイツ党の指導部にすえるというのがこの当時ジノビエフのお気に入りの考えだったが、このプランが実現できないことが明らかになると、他の統制手段が検討された。
 スターリン書記局の提案で、政治局は実力者であるドミトリ・Z・マヌイルスキーをジノビエフの補佐に任命した。この任命は、ジノビエフのコミンテルンに浸透するためのスターリンの主要な道具だった。それまでマヌイルスキーはロシア党以外の指示で働いたことがなく、国外での任務に配属される素養はなかった。1923年までは、理論的あるいは国際経験に抜きん出たロシア人コミュニストだけがコミンテルン代議員になった。真の権威を担っていたのはブハーリンやトロツキーといった人物だけだった。例えばセラーティーレヴィ危機の際のマティヤス・ラコシがそうだったように、コミンテルン勤務についた外国人コミュニストたちは各国共産党の頑強な抵抗にぶつかった。
 スターリンがロシア党のやり方をコミンテルンに導入したということは、マヌイルスキーという人格によってうまく説明できる。彼はウクライナの村の僧侶の息子で、セント・ペトログラード大学の学生として1904年にロシア社会民主党ボルシェビキ派に加盟した。1906年にクロンシュタットでの革命に参加し、逮捕されて追放され、ロシアから逃亡した。1917年までヨーロッパ、とりわけフランスを旅して回り、そこではセールスマンを何年もやっていた。1909年、彼は反対グループに加わってレーニンに反対する論文を何本かフペリョードに投稿したが、この罪科が書記長の手中にある武器だった。1917年に彼がペトログラードに戻ると、最初にボルシェヴィキとメンシェヴィキの中間グループに加わった。彼はこの当時トロツキーと親しくしており、トロツキーによれば、レーニン派に加わらないよう彼に警告したのだという。しかし1917年のうちにマヌイルスキーもボルシェビキに加わった。
 1919年の夏、党は彼をウクライナに派遣して、1923年までそこにいた。ウクライナでは民族主義者と労働者反対派という格別な問題が生じていたが、マヌイルスキーは党機構の側に自らの居場所を見出した。この火点にあって、組織局のこの男は柔軟な適応力を身につけ、すばらしく見晴らしのよい場所からスターリン書記局の権力の増大を観察して、勝者の側につくよう画策をめぐらせた。
 彼は1920年にコミンテルン要員としてフランスに派遣されたが、公的にはウクライナ赤十字の責任者ということだった。フランスから追放されて後、彼はウクライナ農業人民委員およびウクライナ党書記長となった。1924年、コミンテルンのドイツ派遣団代表となったが、これは公的にはコミンテルンの指導下にあるものの、実際にはスターリンの秘密の差配で動く非公然グループによって構成されていた。
 最初はモスクワで、後にはベルリンで、私がマヌイルスキーと会った時、私はこれまで知らないタイプのロシア人コミュニストに出くわした。いちばん衝撃を受けたのは、彼のあからさまな懐疑主義だった。共産主義理論にたいする彼の関心は、人を動かすのに有用かどうかという点に限定されていた。彼は放浪者〔ボヘミアン〕としてベルリンに居住し、個人的な事柄ではむしろ気さくだったが、陰謀にだけは強い関心を示し、コミンテルンの明示の目的や原則を額面どおり受け取る人々を冷たく軽蔑した。ドイツ人コミュニストは彼をあまり好きではなかったが、それは彼がドイツ人コミュニストをあまり好きではないのと同じだった。彼の技術的真剣さ、情熱的な献身と、彼の冷たい皮肉との間には、友情が介在する余地はなかった。彼はドイツ人のことを、自らのロシア要員サークルだけで討議する肥大化した諸問題にたえず首を突っ込んでくる、あまりに熱中しやすくて煩わしい子供として扱った。
 マヌイルスキーは前任のラデックよりも多くのスタッフを抱えていた。彼はベルリンに住み着き、各所にアパートを借りて、あらゆる地方委員会に私的なオブザーバーを送り込み、その報告書をモスクワに提出した。ドイツ党は彼らの存在すら知らなかった。妨げるもののない彼への訪問者の流れはあらゆるグループや傾向を代表していた。訪問者たちはコミンテルン代表と党の危機について討論し、彼は申立をやさしく聞き入れた。彼は自らを信頼の置ける知識人として押し出すとともに、出版や情報提供にたいして、あるいはロシアや外国での政治的任務をモスクワの司令部に推薦して、収入を保証することによって彼らの個人的な諸困難にまで援助の手をさしのべた。しかし、ドイツでの活動の最初のこの時期にマヌイルスキーは大した成果を得ることはできなかった。ドイツ党はいまだランクアンドファイルの気分と意思によって支配されており、十分に団結していた。モスクワへのマヌイルスキー報告はこんな調子だった。ドイツ党は漂流している、左派による党指導部の統制が許されれば、コミンテルンからの離反を招くだろう、と。しかしあまりにも厳格なやり方を即座にとれば、反モスクワ傾向を助長するだけだった。彼はドイツ党に浸透し、組織するために一定の時間を要求した。
 
フランクフルト党大会
マヌイルスキーの最初の試練は、1924年4月初めにフランクフルト・アム・マインで開催された第9回ドイツ党大会だった。フーゴ・エーヴェルラインはこれをスポーツクラブ大会だと言っていたが、フランクフルト警察もこれが党大会であることを察知していた。しかし双方によってゲームは続けられ、すべてがきわめてスムーズに進行した。しかし決定的な瞬間には、防衛隊とともに配置された運営スタッフが、警官が襲撃する危険がある、とアナウンスすることで討論を短く打ち切ることができた。
 この大会の精神は、1923年の敗北にもっとも責任を負う労働組合にたいしてランクアンドファイルが抱く敵意にもっとも表れていた。1919年や1920年がそうだったように、共産党員の労組への参加が討議された。労組はドイツ労働者階級の信用を失っているという確信から、多くの代議員が腐敗した労組を支えるために無駄なエネルギーを費やすのではなく、共産党が主導する独立した労組を結成すべきだと感じていた。大会中、独立労組や通常労組内の共産党フラクション代表からなる全ドイツ革命的労組委員会が組織された。小規模だったにもかかわらず、独立労組は共産党にとっては合法・非合法の両面で巨大な支えとなった。
 独立労組結成に集中すべきだという提案は、ロシア人指導者たちがドイツ問題に介入する格好の契機となった。伝統的なレーニンの理論によれば、労組からの決別は重大な政治的誤りだった。フランクフルト大会への公開状でジノビエフはこの極左的傾向に警告し、反ボルシェビキ的立場の危険性について言及した。彼は攻撃のためにボリスとサモシュの問題を指摘した。
 ボリスとサモシュは2人の青年党員の変名で、彼らはロシアから革命後に移住してきた。党の機関誌「ローテ・クーリエ」で、彼らはソビエト国家の社会主義的性格に疑問を表明していた。ロルフ・カッツという若い理論家とともに、彼らは、革命退潮の時期におけるソビエトの対外政策とコミンテルンの政策との関係を精査した。新経済政策は私企業への部分的譲歩であり、ロシア経済を世界市場に結びつけた。ソビエトの対外政策はロシア経済への適応を強いられ、ロシアと資本主義的隣国との友好関係を目指さざるをえなかった。こうした妥協政策は、ロシア以外の革命党の利益と衝突するに至った。そうであるがゆえに、コミンテルン組織はソビエト国家と絶縁すべきであると、ボリス、サモシュは結論づけた。コミンテルン本部はモスクワから移動すべきで、両者のすべての政治的・組織的結びつきを切断すべきである。各共産党はモスクワの財政的支援を拒否すべきであり、ソビエト対外政策を変更する必要性を検討することなくその政策を実行してはならない。ロシア党はインターナショナルにおいて平等な権利をもった一構成員となるべきであり、国家権力でもってこれを支配してはならない。
 若くて影響力の小さいボリスとサモシュの提案が、モスクワ政治局からの嵐のような抗議を呼び起こした。もしドイツ左派がこんな色合いの反ボルシェビキ的傾向を許容するならば、これは「世界革命の絶望的喪失」になろう、とジノビエフは言った。ジノビエフは彼らの民族的出自を指摘した。ロシア党の統制下になく、コミンテルンで他の支部メンバーになっているすべてのロシア人はこんなふうに懐疑的なのだ。このジノビエフ書簡は、背後でなされていた幾多のロシア政治局による介入の一つだったが、左派代議員の怒りを買った。モスクワ政治局とドイツ人コミュニストとの仲違いは明白だった。明らかに政治局は、ドイツ党内の独立した潮流をいっさい許容するつもりはなく、これほどまでに党を分裂させる方を好んだ。ボリスとサモシュはフランクフルトで支持者を得ることはなかった。だがドイツ党は、ネップやその含蓄といったロシア政策の内容を慎重に検討するには、内部におけるさまざまなグループ間の権力闘争にあまりにも没入していた。ベルリン、ルール、ハンブルグ、パラティネイトからやってきた多くの代議員たちはモスクワの指導に抵抗するよう提起した。ジノビエフとスターリンにたいする非公開の返書で、左派フラクションはジノビエフの告発を否定し、ドイツ左派にたいする政治局の敵意に懸念を表明した。当時テールマン、マスロー、フィッシャーからなっていたドイツ左派指導部は、こうした介入と頑強に戦い、ロシア政治局から党の独立性を確保すべしという委任を獲得した。
 フランクフルト大会の政治的決定は、ドーズ案がもたらした緊急の政治課題にたいしては全く不適切だった。党は権力闘争の教訓を学ぶことに集中し、こうした受動性を決して繰り返さないための確固たる定式を模索していた。大会文書は、権力を組織し、獲得するための手法に関して繰り返し言及していた。これらのスローガンはドイツとロシアの情況が変わってたちまち愚かしいものになり、フランクフルト決定は批判にさらされるだけの代物だった。しかし、左派の間違い全体にある程度均衡するほどの別の側面が党の転換には含まれていた。活性化したカードル層は、党の再組織化、党の政策の再検討に熱心に没入した。しばらくの間、ドイツのコミュニストは、自らの運命を自分たちで決めることが可能である、と信じていた。
 フランクフルト大会でマヌイルスキーは中央委員会の結成をコントロールすることに集中していた。党則によると、中央委員会は代議員内部のさまざまなグループの強さに応じて構成されなくてはならなかった。多数派だった左派は中央派に本来の権限より多くの議席を与え、右派はクララ・ツェトキンやウィルヘルム・ピークが入った。しかしマヌイルスキーは、ブランドラー、タールハイマー、ワルチャーの選挙を操作することはできなかった。彼はブランドラーたちの政策を支持したのではなく党を分裂させようと思っていた。フランクフルト大会で左派は党とその機構全体を統制下においた。中央委員会から地方組織のオルガナイザーまで、スパルタクス・ブンド結成以来のスタッフ総入替えが行われた。党の資産、新聞、建物、資金は管理者が変わった。
 フランクフルト大会の後、マヌイルスキーとその部下たちはモスクワへ戻って、彼らの任務がうまくいかなかったという報告書をあげた。モスクワの失望は大きかった。後にジノビエフはコミンテルン執行委員会に報告した。
「まず第1に、ドイツ左派がコミンテルン執行委員会の意思に反してドイツ党を制圧したことを真摯に認めなければならない。私の知るわがインターナショナルの歴史においてこの種のことは最初で最後である。この事態が示しているのは、ドイツ左派が現在相当な力を有しているということである。少なくとも、当初はコミンテルンの意思に反して党を掌握したのである。執行委員会はこの事実を受け入れ、左派の内部からわれわれにより近い部分が結集するのを期待して対応する以外にない。ブランドラーか左派か―これがあの時の選択だった。多かれ少なかれ健全なプロレタリア的分子は左派とともに歩んだ。右派の指導が破産したからである。不運なことに、中央派を形成しようとしたわれわれの試みは失敗した。この中央派はたちまち霧消してしまった。」(プロトコル1926年、501ページ)
フランクフルト大会はスターリンとジノビエフとの間の摩擦を増大させた。ドイツ左派に反対せよという、コミンテルン議長としてジノビエフが実行するよう与えられた政治局決定は、ドイツ党とジノビエフとを対立させる意図を部分的に含んでいた。当時コミンテルンはロシア外部でもっとも強力な共産党組織だった。ロシアのトップ・リーダーの間では、ジノビエフはコミンテルンの代表とみなされていた。ドイツ共産党左派は、ロシア対外政策に困難をもたらすトラブル屋で、ジノビエフが公的にはこれを批判しているにもかかわらず、その存在そのものがジノビエフの政治局内部における影響力を強化する可能性があった。しかしながら、ドイツ党の圧倒的多数派が別の指導部を選択したので、スターリンは静観を決め込んだ。
 大会直前、スターリンとジノビエフは別々に手書きの手紙をマックス・レヴィンを通じてマスローと私に送ってきた。レヴィンは、スターリンとジノビエフとの間に緊張があり、2人ともドイツ党の左派指導部と良好な関係を保つよう心を配っている、とわれわれに語った。マスローも私も、スターリンの私的書簡や、ロシアの書記長ともっと協力するようにというマヌイルスキーの提案にも返事をしなかった。スターリンのこれらの申し出を断ったために私が危険水域に入ったことを知ったのは、ずっと後のことだった。権力機構を回転させているのに、コミンテルン政治のキースポットであるベルリンにこんな2人の非協力者がいることを、スターリンは容認できなかった。とりわけマスローは、当然スターリンに払うべき感謝の念もなく、不信感だけを返して党を独立へと駆り立てていたので、彼の怒りを買った。スターリンが演じた狡猾な術策によれば、強力な敵が自ら保護を申し出ているのに公然たる侮蔑で応えるとは、到底許しがたい行為なのだった。われわれを別の査問でモスクワに呼びつけることはほとんど不可能だった。ドイツ党の指導からわれわれを排除するために何か別の方策が見出されねばならなかった。
 1924年5月4日に行われたインフレ後最初の共和国選挙で、共産党は大きく前進し、USPDと統一した1920年の15議席に比べて、370万票、62議席を獲得した。他方、社会民主党には警報が鳴った。1918年以来の大敗で171議席を100議席に減らした。民主党も大きく議席を失い、38から28議席となった。シュトレーゼマンのドイツ人民党は44から45議席となった。ドイツ国家人民党は、ティルピッツ将軍を擁して67から95議席に増やした。他にも「自由のためのドイツ人民党」という民族主義者のグループが36議席をとった。これはインフレ危機の後のドイツの傾向を表しており、ヒトラーおよびその支持者にたいする共和国の不安定さを誇示していた。選挙の翌朝、ドイツ人と外国人の観察者とは、左と右の両極への振れに言及し(「ティルピッツとルート・フィッシャーが勝者である))、打ち続くドイツの騒擾という現象はドーズ案支持の議論を補強するだけだ、と論じた。
 
第5回世界大会
選挙直後、私はイギリス共産党大会に派遣された。すべての重要な党の会合や大会には友好派遣団を相互に送って交流するのが慣習だったが、コミンテルンの公的介入が増大するのに伴って、この交流も単に形式的なものとなりつつあった。聞いたこともないほど大きな炎をもてあそんで、ドイツ政治局はモスクワから独立した西側諸党との接触を築き上げる課題を自らに課した。ドイツ左派はヨーロッパ共産党の政策をつくりはじめたのだ。
 私はロンドンに仮名で旅行し、そこでコミンテルンの公的代表D・ペトロフスキと会ったが、彼はベネットという名前を使ってイギリス共産党で働いていた。彼は、マヌイルスキーより少ないものの、アドバイザーや技術者からなる専属スタッフを抱えていた。私は共産党を離脱したばかりのエレン・C・ウィルキンソンとも会い、ジョン・ウォルトン・ニューボールドとはドイツ政策について話し合った。ハリー・ポリット、C・パーム・・ダット、ウィリアム・ガラチャーとも会ったが、その誰もが、よきアドバイスをくれたベネットよりもドイツ党のことに関心を抱いていた。ベネットと私は一緒にマンチェスターを旅したが、そこで大会が開かれたのだった。私が短い挨拶を代議員に送ると、警官が私を、他ならぬ私一人を逮捕するためにやってきた。ベネットは平静を保っていた。しかし警察は紳士的に私のことをロビーで待っていたので、ドレスに身を包み、イギリス人の友人の新聞を手に逃亡するチャンスことができた。この事件の後、コミンテルン代表とは連絡を絶ち、彼の知見なしでリバプールへ向かい、そこからドイツへ戻った。私がコロンで電車に乗ると、数日前にベルリンでマスローが逮捕されたと新聞で報じられていた。
 ただちに私は、献身的な同志にハノーバーで会うよう電報を打ち、抜け道を通ってベルリンに向かった。私はベルリンで国会が開会されて逮捕されなくなるまで非公然生活を続けた。われわれはモスクワの機構が、相対的にあまり有用でないコミンテルンの規律を打ち捨て、今回はベルリン警察と結託して行動していると確信していた。マスローは、特別要員に護衛されたコミンテルン代表との会合を終えて外に出たところで逮捕された。マスローは、当時ベルリン警察にそれほど名前が知られていないのに逮捕された唯一の人だった。一人の刑事が、グループ内にスリがいる、という口実で小さな騒動を捏造した。マスローは警察署に連行され、1923年10月、彼がモスクワで拘束されていた時に、ドイツ政府を転覆しようと企てたかどで逮捕された。
 1924年6月17日、第5回コミンテルン大会がモスクワで行われた。ヨーロッパではコミュニストの活動と見通しがかくも退潮していたので、コミンテルンはロシア共産党にたいする求心力を失っており、ジノビエフはロシア政治局での彼の地位を再獲得するために印象的なデモンストレーションを必要としていた。
 第5回世界大会は、この時期のコミンテルンに覆いかぶさっていた無決定、落ち着きのなさ、機密主義を反映していた。いかなる国でもコミンテルンは何の前進もしておらず、大会はこの手詰まり状態を反映した。モスクワで大会が開かれている時、GPU特殊部隊がグルジアで起きた反乱を鎮圧したが、代議員はこれに完璧な無視を貫いた。ポポフがこの蜂起について書いている。
「1924年の秋のはじめには、地方住民個々のセクションの間の雰囲気が悪化していることは、幾多の兆候によって報告されていた。
 その手始めが1924年のグルジア反乱だった。この反乱は、数日のうちに鎮圧されたが、国外の帝国主義者によって挑発され、これら帝国主義が供給した資金でメンシェビキが組織したものだった。これは以前の貴族と小ブルジョアの一部に支持された。しかし、一部の農民も反乱に同情的な態度を示した。とりわけても危険だったのは、グルジアの貧しい反労働者的地域(グリアとミングレリア)からこうした態度が伝わってきたという事実だった。」
第5回大会はヨーロッパ情勢を不正確に解釈した。資本主義の相対的安定というあいまいなコンセプトが共産党の政策の決定的な変更を妨げた。労働者政府の特徴に関する複雑な討議では、この用語はプロレタリア独裁と「同義語」だと受け止められた。この修辞的小道具は、いかなる明示の声明もなかったが、究極的にはバルカンあるいは中央ヨーロッパ政府への参加に道を開くことを意味していた。
「労働者農民政府」を通じてバルカンに浸透するというこの新しい試みは、「工業主義者」に反対して熟考した結果だった。革命はヨーロッパの工業国、とりわけドイツやフランス、イギリスでは失敗し、切迫した危機は明白に存在しない。しかしわれわれは農民が人口の大半を占める不安定なバルカンで権力をとれないのか? プロレタリア独裁という約束には明らかに魅力を感じていないこれらバルカンの農民たちは、ソビエトロシアに友好的な労働者農民政府だったら支持するかもしれない。この政策と最近起きたザクソニーの不幸な経験とを区別し、当初の革命的コンセプトと同じものだと提起してその変更を覆い隠すために、「同義語」という用語が必要とされた。不抜の伝統の継続性を打ちたてようとする本能、変更を変更とは決して呼ばないこの習慣は、スターリン主義者の教条の主要な特徴である。
だが、バルカンの農民政府という概念は、ロシア国内でコミュニストと農民との関係を再調整しようとする手探りの反映でもあった。ネップの下では―いわば制限された自由市場と農民の国では―農民は共産党が与えるよりもっと多くの直接的な政治的声を必要としていた。貧農委員会は村のなかでの階級闘争の道具だったが、これは内戦期間中、ある程度は都市に拠点をおく共産党の代理人として機能した。富農と貧農との闘争はけっして解決しなかった。貧農と中農の委員会が、次第に党から独立し、農村での階級闘争を終えて農民の国家機関を体現することが可能でないことがあろうか? この新政策にはもっと深い含蓄があった。モスクワの監督下で、さまざまな農民組織を国際組織に統合する試みとしてクレスティンテルンが1923年に組織され、その第2回大会が準備されていた。1924年、ジノビエフは、一定の将来にはソビエト農民党の中核となる非党員農民グループをソビエト内で形成するよう提起した。
「モスクワの雰囲気は快活なものではなかった。ドイツ革命の失敗は絶望に近い憂鬱な気分を生み出していた。これは歴史的一時期の最後のカードが切られてしまったものとして受け止められた。誰を非難すべきか? コミンテルンの責任者たるラデックが当然にもいけにえとなった。トロツキー派は「臆病」という言葉を用いた。長期にわたってポーランド国境に待機していた騎馬兵を派遣しなかったのは単なる臆病だ、と彼らは言った・・・党は明らかに深刻な内部闘争へと傾いていた。
コミンテルンはその戦術を変えた。「工業主義者」はドイツでの大失敗の後には地歩を失ったように見えた。彼らは、社会革命についての議論を転換し、社会革命はバルカンやイタリアを通じて来るのだといって、農民階級に重点をおいた。コミンテルンの援助者として、「クレスティンテルン」あるいは農民インターナショナルの結成が再び提起された。」
 第5回大会の主要な話題は、トロツキズムとのたたかいだった。すべてのきょうだい代議員はジノビエフ声明を猿真似し、演壇に上がって「レーニン主義の原則」にたいする彼らの不滅の忠誠を宣伝した。このパレードは、「解消主義者」すなわちコミンテルンという無益な機構、資本主義国との良好な関係を築く妨害物を廃止することを望んでいる者たちに反対して、コミンテルン内のジノビエフの地位を支えるよう意図されていた。こうして、ジノビエフは「トロツキズム」反対のたたかいを、ロシア党内の解消派からコミンテルンを守るたたかいとして部分的に利用した。
 討論はコミンテルン内部におけるトロツキストの本当の強さを反映したものではなかった。いずれのロシア人フラクションも他の反対グループとトロツキーとの同盟をおそれていた。政治局の全構成員が、誰もが十分な熱意をもって反トロツキー攻撃を行っているのを嫉み深く眺めていた。舞台の背景ではスターリンが、ロシア人のコミンテルン代議員の決定を通じて、ジノビエフを反トロツキー宣伝の矢面に立たせていた。ジノビエフはボールを投げ返し、彼の反トロツキー・テーゼが「最高の世界的権威」たる共産党によって裏書されることで、スターリン・トロツキー連合が不可能になることを望んでいた。
こうして、第5回世界大会は政治局内のさまざまなグループの闘争の場と化した。第5回大会にそれ以上の意味はなく、大した権威ももたなかった。
 6月14日、トロツキーがスターリンとジノビエフとともにレーニンの葬儀に姿を現した時、彼は群集から熱烈な喝采を浴びた。しかし、彼の当時の政策は静かな撤退であり、彼は議論には介入せず、大会がつくりあげたトロツキズムについての修辞的な長広舌を辛抱強く容認した。トロツキーはさまざまな過去の履歴と現在のレーニン主義理論からの逸脱を非難されたが、これらのすべてが1917年以前のレーニンとトロツキーとの相違―国家党〔state Party〕が権力についている新しい条件下では妥当性を失った相違―に関係しているのだった。第5回大会の反トロツキー宣伝はくだらないもので、ロシア人いわく「夕食後のカラシ」だった。トロツキーが「反革命」的とか「ブルジョア」的傾向があるとか、到底考えられないことだった。この攻撃は、彼を政治局の第一人者の地位から排除しはするが、党またはコミンテルンの集団指導から永久に排除したり、彼の「革命的名誉」を疑問視したりはしない、という意図が込められていた。
 スターリンの大会への登場の仕方は、彼の権力闘争のこの段階の特徴を示していた。彼は演説がなされるままにしておき、代議員による数多くの会合にも参加しなかった。代議員の行動と性格を精査しながら、彼はロシア党司令部で私的に討論するのに適切な人物を選択していた。彼はヨーロッパ諸党のオブザーバーたちと私的通信を組織し、彼らはロシア政治局の組織者たるスターリンに直接報告を行った。ロシア人のいかなるコミンテルン代議員もジノビエフ批判を一言も言わなかった。これはロシア党の慣習に反したであろうし、「外国人」の前でロシア人の団結の外観にわずかなひびでもさらけだすことは、大きな犯罪とみなされたであろう。しかしスターリンは、ジノビエフが真のボスではない、という印象をつくろうとし続けた。
 第5回大会で初めてスターリンはコミンテルン代議員に知られることとなった。彼はセント・アンドリューズ・ホールのサロンや廊下を、ほとんど隠密裏に、静かに滑空した。パイプを吹かし、チュニックとウェリントン・ブーツを身につけて、彼は小グループと柔らかく穏やかに話し、目立たない通訳の助けを借りて、自らを新しいタイプのロシア人指導者として押し出した。若い代議員たちはこのポーズを、革命的レトリックを嫌う革命家、地に足の着いた組織者、彼の迅速な決定と近代的手法とが変化する世界の課題を解決するだろう、と受け止めていたく感激した。ジノビエフの周囲の人々は、古臭く、気難しくて、時代遅れだった。
 私には、このスターリンの「求婚」の影響を観察する機会がたくさんあった。私は、ほとんど排外的なまでに自分たちの利益を擁護しようとしていた約40人ほどのドイツ人代議員グループを代表していた。そのなかの野心家がエルンスト・テールマンで、彼がドイツ党の新しい議長だった。彼はドイツの敗北をめぐって、子供じみたやり方で、特別にジノビエフを攻撃した。彼は左派のテーゼほとんどを単調に並べ立てた。私の「同義語」にたいする受け止め、わが党と幹部会の原則にたいするこの裏切りに対して彼は猛烈に怒り、その後の会議の間中私に背を向けて座っていた。しかしロシア党の誰もがテールマンにおべんちゃらを使い、おおざっぱな示唆を深刻に考え込んでいた。ハインツ・ノイマンは若手代議員の一人だったが、スターリンに熱中していた。モービット刑務所にマスローがいたので、われわれのなかでロシア語を話せる数少ない一人がノイマンだった。スターリンが現れるといつも、彼は新しいご主人を見つけた子犬のようにその後をついて歩いた。スターリンもこのヒヨッコを気に入ったが、彼は数ヶ国語を話せる人でほとんどのヨーロッパの代議員と母国語で会話できるので、彼をドイツ人の間だけではなく〔コミンテルン内部の〕音響板として使った。
 大会の終幕では、マスロー不在のなか、テールマンと私がコミンテルン執行委員会の新しいメンバーに選出された。
 コミンテルン世界大会に出席したドイツ人代議員は、労働者政府に関する諸決議でポケットを膨らませ、ドーズ案に是か非かが時のテーマとなっているドイツに戻った。
 
共和国がドーズ案を受諾
(略)
第19章 ヒンデンブルク選挙
ドーズ案による安定期のあいだ、ドイツ社会の両極化が進んだ。攻撃的な右翼があらゆる工場街の街頭で闘争し、その政府内圧力集団は新参者である社民党を排除すべく抗争した。他方では、苦々しい思いを抱えた労働者階級の少数派が、右翼と負け戦をたたかっていた。
 
王党派の再興
(概略のみ)
・ ファシスト「鉄兜」団の実態
・ ドイツ国旗論争
「1924年5月11日、まる一日にわたる街頭闘争が、共産党の拠点である工業中心地ハレ・アン・デア・ザーレでたたかわれた。人民の家で行われた共産党の大衆集会が鉄兜団の部隊に攻撃された。警察は先頭の終わり頃になって混雑する会場に銃撃することで介入した。6人が殺され、9人が重傷を負った。」
・ 社民党、バルマット兄弟のスキャンダル
・ エーベルト大統領が1918年1月ストライキで反逆罪を働いた、と右翼がキャンペーン
・ プロシア国会のオットー・ブラウン内閣の不安定な地位。「プロシア問題」
「共産党のランクアンドファイルにとって、「社民党」は自らを打ちのめした警官のことであって、隣で働いている労働者の仲間のことではなかった」
 
「共和国防衛」
 こうした党内の雰囲気にたいして、マスローはいまだ判決を待って獄中にいたが、新たな政策「共和国防衛」を提起した。1925年初頭のこの時期において、フランクフルト大会の革命的言辞からすると、これはドイツ政治をリアルに受け止めた大胆な転換だった。資本主義の発達とドイツ民族主義の活発な攻撃に直面して、社民党の影響力の結節環である共和国政府とプロシア国会において社会主義者の戦力の完全な再編がなされるべきである、とマスローは提起した。これは、伝統的なコミンテルンの統一戦線政策に含まれている退屈な労組内部での提案とは全く異なっていた。
 マスロー提起によれば、共産党の共和国防衛政策は黒国防軍(Black Reichswehr)とFehmeを解散させ、皇室の影響と共和国およびプロシア国会から根絶するたたかいに依拠しなくてはならなかった。究極的には、共和国は国防軍を解散し、武装解除しなくてはならない。国防軍に代わって、復古主義者からワイマール共和国を防衛するために、数ヶ月の訓練を経た武装せる市民が職業軍隊と警察の機能を引き受けるだろう。獄中から中央委員会に宛てた何通かの書簡で、マスローは国防軍対民兵という問題を、社民党と共産党との関係を再調整する基礎として主張した。しかしながら、この終局目標はいくつかの政治的段階を経ることでのみ達成されるだろうが、まずもって共産党の態度が根本的に変わらなければならない。
 この提起は30年代中期ではなく、ナチ運動がまだ完全に発展しておらず、スターリンの国家党(State Party)体制がナチの勝利をまったく考慮外においていた時期になされた。ワイマール共和国のこの危機にあたって、戦闘的な共和国政策を提起しながら、マスローは自らのグループの偏見を放棄し、共産党を共和国防衛の前面に押し出そうとした。ドイツ政治局にとって、これまでの統一戦線の宣伝は自分たちの優位と結びついていた。社民党がまずはじめに共産党攻撃を控えるべきであり、それからコミュニストが項目を討議する。マスロー提起は、どちらが優位かという問題を超えていただけでなく、これまでのストライキの要求よりもはるかに広いものを含んでいた。マスローは社民党だけでなく中道―カトリック労働者とカトリック小ブルジョア―にも政治的同盟を申し出ることを望んでいたが、労働戦線の外側に出るこの一歩が彼の提案の最大の独自性であり、ここが最大の攻撃を招いた。
 マヌイルスキーはマスローの政策を不安げに眺めていた。もしドイツ党がこの構想を受け入れるなら、ドイツ共産党の独自政策が発展するかもしれず、これはロシアの対外政策の術策を妨害するだろうし、とりわけドイツ民族主義者との協力計画に影響することだろう。この当時、ロシアの主要な利益は西ヨーロッパ・ブロックに対する防壁を建設するということで、これが反帝国主義勢力をすべて統合しようとしていたドイツ共産党の当時の重要課題と衝突していた。そういうわけで、ドイツの中央委員会はもっとも繊細な問題に直面していることがわかった。党の政策は、重要性を失った革命的言辞の繰り返しを続けることはできなかったが、断固たる政策転換は、モスクワ政治局の目立たない激励を受けた一部のランクアンドファイルから頑強な反対にでくわした。「極左」反対派が結成され、アルトール・ロゼンベルグとベルナー・ショーレムがこれを指導し、ベルリンのウェディング地区、ルール、ドイツ南西部から大きな支持を受けた。彼らはマスローを「同盟政策」という日和見主義の罪で弾劾したが、この用語はドイツの社会主義政策においては階級の一線を越えた協力政策を意味しており、例えば戦債投票で帝国主義政府の側につくことがそうだった。
 
大統領候補テールマン
共産党は大統領候補としてアーネスト・テールマンを押し立てた。右派を代表してウィルヘルム・ピークはおどおどしながら初めはクララ・ツェトキンを推薦した。これは幾多の理由から党の圧倒的多数に否決されたが、そのもっとも大きな理由は彼女がずけずけと物を言う右派だということだった。この後、言うまでもなくテールマンが残された選択だった。彼は左翼共産主義の象徴だった。彼はプロレタリア出身で党内の人気者だった。ドイツ政治局はドイツの革命的労働者を人格的に体現している彼の党内の立場ゆえに彼を選択した。
 マスローは、共和国防衛という彼の方針提起に沿って、テールマンの大統領選立候補を撤回し、党は以下の条件を受け入れた共和国候補を支持するよう要求した。いわく、すべての皇室財産、戦時およびインフレによる利潤を没収すること。皇室の全構成員はドイツから追放されるべきこと。帝政派の将校、裁判官、公務員は職務から追放し、裁判官と公務員は選挙されるべきこと。教会と国家は完全に分離すること。給与からの源泉徴収は廃止され、資産税をこれにとって代えること。8時間労働制の保護を厳格に定義し、強制すること。報道、組織、集会、ストライキ、デモンストレーションの自由。政治的恩赦がなされるべきこと。これらすべての要求は、明白にワイマール憲法の枠組みのもとで実現可能なものとして定式化されていた。これは社会主義綱領ではなく、むしろブルジョア革命を完遂し、帝国の残滓を完全に破壊する方策だった。これらはブランドラーたち極左分派によって攻撃されたが、実際のところこれは1923年のブランドラー綱領と同じものだった。しかし今回は、過去5年間のような革命的高揚の時期にではなく、社会主義者が防衛に回らざるを得ない敗北の時期に提出されたのだった。
前段投票は1925年3月29日に行われ、420ページに示した結果をもたらした(候補者は左翼から右翼までリストアップし、決選投票で争うブロックごとにグループ化した)。一瞥すると、この集計の重要な特徴は、人民連合の3名の総得票数は多数派と言ってよいほど決定的な大量得票だったことだと思われる。しかし、選挙で驚くべき点はむしろヤレスの大規模な得票の方で、次点よりも約250万多いことだ。
アーネスト・テールマン(共産党) 1,871,815  7.0%
オットー・ブラウン(社民党)     7,802,497  29.0%
ウィルヘルム・マックス(中央党) 1,568,398  5.8%
人民連合              13,258,629 49.3%
ハインリヒ・ヘルド博士(ババリア人民党)1,007,450  3.7%
カール・ヤレス博士       10,416,658 38.8%
(ドイツ民族人民党、ドイツ人民党)
エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍(ナチス)285,793  1.1%
帝国ブロック           11,709,901 43.6%
 
 人民連合の総得票数は大きかったが、3人が乱立する第1回投票のすでにこの段階で帝国ブロックの団結の方が進んでいた。
 結果が告知されると、帝政派はすでに潮流が彼らに有利な方へ流れていると判断した。彼らはヒンデンブルグを決選投票の候補として押し立てた。この微妙な均衡のなかでは、共産党の立ち位置が決定要因となることは可能だった。再度、マスローはテールマンの立候補撤回を主張したが、再度、彼の提起が日和見主義者だとして攻撃された。
 ヒンデンブルグが大統領候補だというニュースが届いた時、私はコミンテルン執行委員会の会合のためモスクワにいた。ジノビエフはびっくり仰天した。もしヒンデンブルグの指名が可能となると、ドイツ国内の帝政派の力が再結集して危険水域に達するに違いなかった。マスローとは別に、ジノビエフは帝国主義レジームに反対して共産党はブラウンを支持すべきだと提起した。国会議員副団長のイワン・カッツはハノーバーの極左グループ指導者で、当時コミンテルン執行委員会の恒常代議員だった。カッツによれば、スパルタクスブンドの当時以来、社民党は労働者階級の虐殺者なのだった。帝政派と社民党の連合によって多くの仲間が殺されてきた共産党にオットー・ブラウンを支持せよなどと要求すれば、たいへんな怒りを呼び起こすだろう。
 長く白熱した討論の合間に、私はジノビエフと話し合った。前段選挙の結果はただちにドイツ共産党の政策を完全に変更させた、とジノビエフは指摘した。われわれが選挙でオットー・ブラウンを推すということは、われわれが彼を個人的に支持するのでもなければ彼の政策を支持するのでもない。われわれは社会民主党の労働者と共和国を極右の血塗られた意思から防衛するのだ。「これはよりましな悪い政策ではないのでしょうか?」と私は尋ねた。この伝統的な社民的スローガンは常にコミュニストの嘲笑の的だった。「なぜいつもわれわれがより大きな悪を選ぶ必要があるのかね?」とジノビエフは答えた。
 スターリンはドイツとロシア双方に決定的なこの問題について、態度表明を避けた。これをコミンテルン執行委員会の議題として取上げたのはジノビエフで、1925年4月2日の会合でヒンデンブルグ候補の件が討議された。
ジノビエフ:ロシア党政治局とドイツ代議員の名において、私は以下の戦術提起を擁護したい。われわれは、共和国か帝政かという選択がわれわれにとって非現実的だ、という観点を受け入れることはできない。ブルジョア民主主義はわが階級闘争において総じて帝政よりもはるかに好ましい。例え民主主義が貧弱なものだとしてもだ・・・われわれはブルジョア民主主義にたいするプロレタリアートの切迫した闘争から出発する。革命の波が減退した瞬間には、ブルジョア民主主義と帝政との違いは巨大な重要性をもつ。ドイツで帝政派の候補者は1,100万票を獲得した。帝政派の危険性はホーエンツォレルン家の復帰と同じではない。これはもっと複雑な「帝政派」の危険であり、いずれにせよ危険なのだ。
 われわれはみな、帝政の復興にとって社民党が重大な障害物ではないことを知っている。社民党はそれ自身が半帝政派なのである。われわれは11月の日々、すでにシャイデマンの演説にこれを見たし、今は彼の回顧録で見ることができる。社民党は悪い共和派である―ブルジョア、小ブルジョア共和派、そして悪い共和派である。彼らにはとうてい共和国を防衛することはできない。ありそうな情勢はこんな感じだ。社民党が800万票を獲得、われわれが200万票を獲得、民族主義者が1,100万票を獲得する。いわゆる共和国ブロックは1300万票をもっているが、帝政派には1,100から1,150万票ある。すべてが脅威にさらされている。もし帝政派候補が選出されれば、社民党とブルジョアがわれわれに責任を押し付けようとするだろう・・・
 より大きな危険は膨大な労働者階層がわれわれと決別することだ・・・私が信じるところでは、われわれのスローガンは単純でなくてはならず、もっとも人気のある要求だけを前面に押し出すべきだ・・・最初の選挙でわれわれは自らの力を試した。決戦投票では最終的な結果を考慮しなければならない・・・諸君はこうした戦術をレーニンを読み直すことで学ぶことができよう・・・
 唾棄すべきオットー・ブラウンに投票することを感情的に拒否することもできよう。もしエーベルトが生きていれば彼に投票するだろうか? もちろん、われわれはそうする―ヤレスに反対して。われわれは労働者の党として、社民とブルジョアジーは、われわれが政治的態度を決めなければならないあらゆる問題において、同じレベルの敵であると言わねばならない。われわれはブルジョア民主主義と帝政との間で、どちらが争点なのかを決定せねばならない・・・ただ共産主義者だけが究極的に真の共和派である。
 諸君は、革命が終わったと言って「前進」が大喜びするだろうと私に語る。・・・われわれは彼らに向かって大まじめにこう答えることができる。諸君は世界革命が延期されたと言っている。今や諸君はわれわれの提起を共同行動として容易に受け入れることができる、と。
ルート・フィッシャー:私はジノビエフの提起が完全に正しいと思う・・・私はこの戦術がわが党にとってどれぐらい困難なのか評価しない(けれども)・・・差し迫る革命闘争の時期はドイツでは終わった。これが1923年と1925年との相違であり、これがわが党の同志たちには理解されていない。
カッツ:わが同志たちはエーベルト・バーマットの党のなかに労働者階級の最悪の敵、すなわち腐敗したブルジョアを見ている・・・帝政の危機は過去よりも強いわけではない。昨年、帝政派はもっと影響力をもっていた。昨年だったら、ヒトラーとルーデンドルフは数百万の得票を得ていた。ヤレスは典型的な大企業の代表である・・・これらの戦術がもたらす結果はおそるべきものとなろう。党は崩壊するだろう。
ジノビエフ:われわれは敵に包囲されて生きている。われわれには知恵が必要だ。もしわれわれが失敗すれば、労働者階級は資本主義のくびきをさらに25年間も耐えねばならなくなるだろう。イギリスでわれわれはマクドナルドに投票した。エンゲルスやレーニンのような人々は、イギリスでの方策を探るためにイギリス問題を何十年も研究した。諸君はわれわれがどんな種類の敵を抱えているのか理解していない・・・
 ベルリンでは、決選投票で党の独自候補を立てないというジノビエフとマスローの提起は、テールマンの影響下にあったドイツ党中央委員会によって否決されたが、彼は大統領候補の役割を好んでいたのだった。テールマンはこの仕事にぴったりの適性をもっていた。彼の故郷はハンブルグというドイツ最大の港町で、この街はそこに住む労働者のなかから国際精神に富んだ急進派を育て上げた。世界大戦前と大戦の間、ここで「テディ」=テールマンは埠頭の非熟練工をやっていた。彼は、カイザー帝国主義者たちの世界制覇の夢に反対する戦闘的活動家として、仲間の労働者から認知をかちとった。内戦の時、ドイツの北部海岸ヴァッセルカンテの反軍国主義の労働者の間で、彼の名が知られるようになった。彼は1920年のハレ大会にUSPDのハンブルグ代議員を率いていたが、分裂のもっとも熱心な主唱者の一人だった。共産党内における左派と右派の闘争では、たちまち彼は左派の指導者の一人となった。
 アーネスト・テールマンはありきたりの社会主義の指導者ではなかった。社会民主党のなかでは非熟練労働者はめったに重要なポストに選出されることがなかった。テールマンのようなタイプの人間は低い地位にとどまっていたが、これはスパルタクスブンドにおいてすら同様で、ブンドのヒエラルヒーはパウル・レヴィのような知識人とヤコブ・ヴァルチャーのように若い頃職場を離れた労働組合活動家から成っていた。
 テールマンは野心家で勇敢な男だった。青年時代、彼は商船に乗って海に出ており、船乗りの千鳥足をいまだに引きずっていた。彼はあまり教育を受けておらず、マルクス主義の用語や外国語表現とつねに格闘していた。しかし彼の広い経験とすばらしい政治的本能が彼をその経歴の最初から助けた。彼はとても情緒な演説家で、時として支離滅裂に叫び、白い衿を涙で濡らした。こうしたしぐさはつねに歓呼の声で迎えられた。しかし、彼はその信念にたいする真剣さと議論の情熱でもって聴衆をつかんだ。ヒンデンブルグ
とかルーデンドルフといった「将軍連」にたいする彼の憎しみと、ドイツ帝政派分子の再結集にたいする非妥協的な反対には、疑う余地がなかった。
 ロシア政治局はテールマンの性格の長所と短所を早い時期から認識していた。政治心理学の達人であるロシアの指導者たちは、彼の人格、プロレタリア出身だという虚栄心、知識人にたいする不信、彼の野心を、いかに利用すべきか知っていた。ハンブルグ組織にはフーゴ・ウルバーンという別の左派リーダーがいたが、彼は田舎教師の出身で、巨体に金髪、頑固で堅苦しく、まさに典型的な北ドイツ人だった。「教育のある」ウルバーンと「プロレタリア」のテールマンの間には抜きがたい対立が存在しており、ラデックは知識人ウルバーンに対抗させて平民のテディを持ち上げることで、これをめいっぱい悪用した。例えば、1923年9月、蜂起の準備を討議するため、めずらしくロシア政治局とコミンテルンのドイツ代議員の合同会議が開かれた。テールマンはマスローと私をいらだたせる(make maslow and me brush)報告を行った。彼はロシア人指導部に向かってあの街頭演説スタイルで語り、荒っぽいアジ調で叫んだ。ロシア人たちは彼の話に割って入ることなく1時間以上も石のように彼の話を聞いていた。彼が結語を述べた後、ラデックが立ち上がり、明らかに深く感動した様子で、ドイツ人の最良のプロレタリアートの息子のすばらしい報告に感謝を述べた。
 1924年の終わりに創設された赤色戦線兵士同盟は、テールマンを初代「総統」に選出した。同盟には二つの目的があった。労働者の組織、会合、クラブ、居住区を民族主義者のテロ組織から防衛することであり、スターヘルムを通じて帝政派に支援された「戦線の魂」や、ドイツ全土にはびこっていたその他いくつもの退役軍人組織に反撃することだった。1924年には国家社会主義的労働者は存在しなかった。むしろ労働者は国家主義者に反対していた。結成は困難だったが、その後、同盟はたちまち大衆組織へと発展した。制服を着て軍事的規律に則った行進は、共産党だろうと社民党だろうと一様に労働者の心をつかんだ。しばらくの間、どれが赤色戦線の制服にぴったりかを選ぶのが、テールマンと彼の親友ウィリ・レオウの娯楽だった。党や労働組合によってしばしば定期的配置換えをされるのが嫌いな活動家は、容易にこうした組織になびいていった。
 ロシア政治局は、ドイツプロレタリアートの革命家、というテールマン伝説の誕生を手助けし、旧指導部や新しい知識人たちにたいして彼を対置した。とりわけスターリンは1923年にモスクワで初めて会った時からテールマンがお気に入りで、彼に栄誉賞と赤色騎兵隊の士官服とを贈呈し、彼はこれを羽織ることに子供じみたプライドを感じていた。ごく初期の頃、子供の家とかそういう類のさまざまなロシアの施設が彼にちなんだ名称をつけた。とりわけても彼の大統領候補指名はテールマン伝説を後押しするものだったが、これは多くの点でヒトラー伝説と共通する特徴を持っている。選挙以前、テールマンは党内の人物だったが、選挙の後になると彼はドイツでもっとも有名な共産主義の指導者になった。この政策がいかに破滅的だったが明白となった後でさえ、1925年大統領選で社民党の候補を支援しなかった失敗は決して強く非難されることはなかったが、これはスターリンがテールマンを擁護し、彼の責任が問われる行動をことごとく隠蔽したためだった。
 テールマンの立候補は党生活に重要な影響をもち、階層的な術策(?hierarchical manipulation)にたいする制限を示威した。テールマンは今や国民レベルの人物となり、ロシア政治局は彼のことを一定考慮せざるをえなかった。スターリンは続いて生じたコミンテルン危機の間中、彼を獲得しようと多大な努力を払った。後に彼の弱点がより明瞭になってくると、彼の権威は党にとって重荷となった。しかし、伝説は生きており、さまざまな反対派から彼を引き剥がそうとする試みは、彼の人気ゆえにいつも失敗した。
 共産党の宣伝は大きな成功をかちとった。集会は、帝政派との乱闘で終わったが、いつになく出席が多く、白熱的だった。選挙前夜には特段に騒然とした暴動がハレで起きた。同日、社会民主党員がベルリンで殺された。共産党のランクアンドファイルは極右と極左の好戦的な対立にあっても意気揚々としていた。彼らは自らが反帝政運動の舵を握っていると感じていた。もちろん、党はテールマンが大統領に選ばれるとは思っていなかったが、相対的に多くの堅い支持者たちが薄めることのない共産党のスローガンの周囲に結集してきた、という成功に興奮していた。多くのメンバーにとってこうした成功は、ありうべきいかなる選挙の報酬よりも高い価値があり、党全体も、前段選挙におけるテールマンの得票が1924年12月の選挙に比べて100万票以上減っているという事実を当面の間見過ごすことが可能となった。
他方、社民党は、ヤレスが大量得票したことで矛盾の渦中にあった。ワイマール共和国初代大統領エーベルトは、中央党を従えるだけの十分な権威があったものの、プロシア首相オットー・ブラウンにはそれがなかった。不公平なたたかいでリスクを背負いたくないがために、社民党は決選投票で中央党の候補者ウィルヘルム・マルクスを支持すると決定した。この後、テールマンは共産党の候補者であることに頑強に固執していることがより正当化されたと感じた。他方、社会民主党は労働陣営のデッドロックをまったく打ち破ろうとはしなかった。
1925年4月26日に行われた決選投票には、かくして3人の候補者が立った。ヒンデンブルグ、マルクス、テールマンである。結果は以下の通りだった。
ヒンデンブルグ(帝国ブロック) 14,655,641 48.3%
マルクス(人民ブロック) 13,751,605 45.3%
テールマン(共産党) 1,931,151 6.4%
こうして、人民連合と共産党が多数票を獲得したにもかかわらず、ヒンデンブルグが第2回投票で最大得票を得てドイツ大統領となった。
 
帝国ブロックの安定
 選挙の後、共産党内の雰囲気は苦いものへと変わった。1925年5月9−10日に行われたツェントララウスシュス(地方支部の選出代議員も含む拡大中央委員会)の会合で、この選挙後の政策をめぐってさまざまな分派が激突した。左派はプロシア国会内の人民ブロックを支持するよう提起した。右派はこれに反対したが、ブルジョア的中央党抜きで社民党および労働組合との統一戦線なら喜んで受け入れる用意があった。極左派はいかなる集団との同盟も拒否した。マヌイルスキーはジノビエフ・マスロー政策に公的な支持を与えた。経験に富んだ目で左派がいくつもの分派に分解するのを見て、彼はこの分断から点を稼ぐ計画を思いついた。日和見主義的方針の危険に関する混み入った論議には、共産党の政策にたいするランクアンドファイルの不信感が際立って反映していた。
エルンスト・マイヤー〔中央委員会にたいする右翼反対派の代表;いつもは自分の意見を慎重に評価するのだが、ここでは単なるデマゴギーをもてあそんでいる〕:マスロー提起は日和見主義で、ブルジョア民主主義のコンセプトにあまりにも近い・・・例えば、われわれは反動的公務員をソビエト選挙で排除すべきかどうか、と尋ねてみなくてはならない。
ルート・フィッシャー:ヒンデンブルグの立候補はブルジョアジーの新しい路線を象徴している。ドイツ・ブルジョアジーは混乱してちょっとヘマを犯した、などというのは誤りである。ヒンデンブルグの立候補は、新たな基盤に依拠した復古への綱領であり計画である。ブルジョアはロシアとの協商を策動している。
党協議会の決定:ヒンデンブルグが大統領に当選したことは、一部のブルジョアが賠償政策に反逆したことを意味するのではない。逆に、これは小ブルジョアの民族主義的反対を制圧して、ドーズ案反対でブルジョアが統一されたことを意味している・・・ドイツの安定はアメリカの信用に完全に依拠している。帝国ブロック諸党はこのため、ヒンデンブルグがドーズ案に従い続けるよう勧告もしている・・・同時に、ヒンデンブルグ選挙によって明らかにブルジョアは、労働者大衆にたいする賠償負担の圧力を強めた。ハレにおける流血の衝突、ライプチヒ裁判の死刑判決〔チェカ裁判〕、ファシストの活動の一新、「帝国旗」組織にたいする裁判など、新たな一連のテロの企てが見られる。
 しばらくの間、ブルジョアは帝国主義として振舞うことを控えているが、独自の帝国主義政策を完全に放棄したわけでは断じてない。彼らは積極的な国外政策を復元し、帝国主義列強というドイツの地位を再建しようと模索している(国際連盟加盟、委任統治領、保障契約)・・・この「国家政策」は事実上、イギリス帝国主義の政策である・・・党内右派と左派の方針の間に線引きすることはできない。分派間の障壁はあまりはっきりしていない。帝政派による反革命が進行している・・・
 帝国主義のこの時代にあって、資本の集積と自由競争の排除とは、政治的レベルにおいては、強い政府への国家権力の集中に対応している。この政府の反動的傾向は帝国主義の危機を増大させる。この傾向は・・・一連のファシズムと呼ばれる現象を生み出している。
 プロシア国会における共産党の政策という議論の重要なポイントでは、反テールマン勢力はかろうじて多数派を得ることができたにすぎなかった。
わが党が右翼といわゆる左翼との間の決定要因である、という情勢下では、右翼連合にたいする左翼連合は許容されうるし、一定の条件下では義務ですらある。
 この決議の議論から以下引用。
ルート・フィッシャー:1923年10月以来の転換点がヒンデンブルグ選挙だ・・・これは党にとっての試験だったが、いまだにこの課題を担うことはできないでいる・・・共産党の労働者がいかなる戦術変更にも不信感を抱いていることは、党活動を改善するうえで重大な障害となっている。
 ヒンデンブルグはイギリスの候補である。ドーズ案はアメリカ・イギリス案だが、フランスにも十分な利点があるという点でフランス案でもある。帝政復興の傾向は最近始まったのではなく1918年11月9日以来のものだが、1923年10月の敗北以来著しく強まっている。
アルトゥール・ロゼンベルグ:2つの陣営のあいだには違いは存在しない。彼らはいずれも大企業を代表しており、共産主義者は、自らの革命的モラルを決定的に失うことなく一つの大企業に反対して他の大企業を防衛することはできない。もしプロシア国会の左翼内閣を支持する決議が受け入れられたなら、共産党は警察予算に投票することを強いられるだろう。われわれはハレの警察長官ピーツガー警部補【?lieutenant】の給与のために投票しなくてはならない。これはコミンテルンの政策において何かが決定的に新しいのであり、その世界大会と執行委員会で採択されたすべての決議と決定に矛盾する。「農民はおもちゃではない」し、共産党もそうである。ブルジョアジーのへその緒は断ち切らねばならず、そうした時にわれわれは自らの周囲に農民や知識人を結集できるのだ。しかし労働者階級とブルジョアジーとの協力を達成することは不可能である。
 ハンス・ウェーベル〔パラティネイトからやってきた別の極左分派指導者〕:もしこの政策が継続されるなら、共産主義者は黒赤金の旗に投票することが問われるだろう。
ウェルナー・ショーレム〔他の極左グループを代表して〕:共産党はプロシア国会の警察予算を受け入れることはできない。
 他のヨーロッパ諸党代表はジノビエフ提起を支持した。オーストリア代表はオーストリアの共産主義者は自らをドイツ党の一部であると考えている、と語った。フランス代表は、ドイツ党の政策はフランス共産主義者の大義を傷つけてきた、と指摘した。ヒンデンブルグの選出はフランスのドイツにたいする不信感を増大させた。
 誰かが工場内部の激しい興奮状態を報告した。ヒンデンブルグ選出は予期されていなかった。労働者の間には、共産党は情勢の深刻さを認識していない、という鋭い批判があった。それからテールマンが、そのうち社会民主党がテールマンの肩に乗ったヒンデンブルグのポスターを全ドイツに張り出すだろう、と会合に語った。(1932年、社会民主党がヒトラーに反対してヒンデンブルグを支持した時、「テールマンの肩にヒンデンブルグ」という選挙後のスローガンは彼ら自身に向けられることになった。)
ルート・フィッシャー:この議論を聞いている誰しもが、この協議会は異次元の場所で開かれていると信じることだろう。
 ヒンデンブルグ選挙は内戦の終了、3つの段階を経るドイツ反革命の第一段階が終わったことを特徴付けた。この選挙から1928―1929年に至る第二段階を通じて、ドイツ帝国主義の再建とホーエンツォレルン家またはその代理人の復帰が試みられた。アメリカの大恐慌からナチの政権掌握までの第三段階では、帝政は新しい形の権力政治にとって替わられるのが見られた。
 1918―1923年の間、参謀本部と社会民主党との同盟は共通の恐怖と相互不信に依拠していた。この時期は、エーベルト体制の弱さが、反革命のジャコビニストたるFreicorpsに革命と反革命の相互作用を触媒する役割を与えた。その外観と行動のいずれにおいても、親衛隊と突撃隊はFreicorpsに直接関係しており、ここを基盤にしない限りSSとSAは理解することができない。カップ一揆の後、Freicorps運動は行き詰まった。1921年と1923年の共産党による蜂起は主として警察力によって制圧された。サロモンが言うように「Freicorpsは消耗していた。ゼーヴェリングの警察が、その背後には国防軍が、所定の位置についていた」。ヒンデンブルグ選挙と同時に、Freicorpsは一時的にその重要性を失っい、彼らはドイツの生活の後景に撤退し、ドーズ案の安定が終わるのを待って、そうしてSSとSAという新たな外観をまとって再登場したのである。
 1923年、革命的蜂起の危機は除去され、民族主義者はもはや防衛的な戦闘をたたかう必要がなくなった。彼らは、困難な時代には社会民主党に一時貸し出していた国家権力への統制を再獲得することに自らの努力を集中した。1923年の後、民族主義者たちは国家を合法的手続きで変質させることができるほど自分たちは強力である、と感じた。彼らは国民投票でこの変質過程への十分な支持を取り付けようと共同の宣伝を始めた。
 1925年選挙はドイツ最初の国民投票で、ドイツ人民がこの直接の訴えにどう反応するかは誰にもわからなかった。ヒンデンブルグは、帝国主義ドイツの平和な40年に積んだすばらしい経歴が、同じような安定を約束するはずの人物として提起された。陛下の忠臣がいまやドイツ共和国の最高権威となった。ヒンデンブルグは一つの神話だった。彼は父なるヒンデンブルグ、救世主なのだった。彼はドイツの非党人、交戦中の政治組織の外側にあるドイツの化身だった。
 ヒンデンブルグはホーエンツォレルン家にたいする忠誠を否定したことは一度もなかった。彼の書斎はホーエンツォレルン家からもらったさまざまなおみやげで一杯だった。フレデリック大王時代の珍しい旗、金の月桂樹、大理石の皇帝像などなど。
毎月27日、ヒンデンブルグは皇帝に誕生祝いを送った・・・大統領選挙の期間中、ヒンデンブルグは膨大な手紙を受け取った。ある者は、次のヨーロッパ戦争はいつ起きると思うか、空襲とガス攻撃にたいする防御として何が推奨されるのか、と尋ねた。
 予期せぬほど容易にヒンデンブルグが選挙に勝った結果、陸軍は自らの権威が著しく高まったのを感じた。憲法の下で大統領は、陸軍政策をはるかに前進させる基礎を築くのに十分な権力と在任期間を保証されていた。この時期には誰もがドーズ案の安定がもたらす繁栄の継続をあてにしていた。ウィルヘルムがいようといまいと、部分的にはもう変質している古い内容へワイマール憲法を徐々に変質させることで、ヒンデンブルグはウィルヘルムのドイツを再建することが可能となろう。こうして、法廷、政府、教育、哲学において、ヒンデンブルグ選挙は旧世代の理想と力を再び活気づけ、新世代を再び制圧する新たな勇気と新たな希望を彼らに与えた。共和国になって7年間、新しい姿を発展させる時期がなかったドイツ労働者は、さらに守勢へと駆り立てられた。いまや陸軍元帥が国家の頂点に立ったことで、陸軍は国家政策を指導する立場へと昇格した。
 ヒンデンブルグ選挙はドイツ国外にとてつもない印象を生み出した。フランスではいらだちが一般的につのり、軍は軍備増強への闘争を強めた。今やドイツが安定街道をまっしぐらに進んでいるからには、イギリスでの対独協力の潮流に弾みがついた。ドイツと国境を接するベルサイユ後に生まれた諸国家には警鐘が鳴らされた。合衆国では、ドーズの監視の下でドイツ再建が進むことに強い利益を見出していたが、カイザーの陸軍元帥が民主共和国の数年後に登場したことはナゾであり、ヨーロッパ政治の迷宮は救いがたいという別の証拠なのだった。一方、ドイツにおける革命の上げ潮が決定的に引いてしまい、新しい安定の時代が始まった指標として、ヒンデンブルグはどこでも歓迎された。他方、彼の選出は世界列強の対立を深め、戦争危機が再燃する前兆であった。
 
 
第20章 スターリンのドイツ共産党問題への介入
 ヒンデンブルグ選挙はドイツ共産党を揺るがし、新たな自覚をもたらした。左派中央委員会はマスローの共和国防衛路線を決定するために、来る7月党大会を開催するよう呼びかけを発した。地方で大会の準備討論がなされる間、マスロー支持者は実質的多数派をかちとり、初めて指導部が再選されるだろうことは明白だった。新たな委任を経た後に初めて、左派は共和国防衛路線を実現し、結果を出すことが可能となるはずだった。
 一方、ドイツ左派はコミンテルンとモスクワ政治局のいずれからも独立した他のヨーロッパ諸党との接触を模索し続けた。イギリス、ノルウェー、フランス、ポーランド各国の党と共有する問題を協議するためにこれら諸国に代議員が派遣されたが、スターリン書記局は疑い深い怒りをもってこうした諸関係を眺めていた。後に、ドイツ左派に反ボリシェヴィズムのレッテルを貼るなかで、モスクワはこれらの協議を第4インターの中核、マスローの西向きの姿勢がもたらした結果として引用した。
 トロツキーと政治局のとの間に闘争が存在することだけでなく、スターリンとジノヴィエフ間の闘争も先鋭化していることは、今やロシアの外にも明白だった。ロシア以外に中央ヨーロッパでは最大の部隊だったドイツ共産党の態度は、ロシアの全対立者にとって死活がかかっていた。もしドイツ左派が再選されて安定すれば、スターリンが掌握したコミンテルンでジノヴィエフが失った権威を取り戻すのではないか、スターリン自身の党ですら求心力を失うのではないかと、スターリンは恐れた。
 マスローにたいするロシア人の介入―彼の1923年10月のモスクワ滞留はGPUに手配されたが、ベルリンでの収監もその疑いがある―は、彼のドイツ党における権威を高めた。彼は不公平に扱われてきたと感じられていた。ドイツの共産主義者は、マスローが教育と経験のあるドイツ人であったとしても、・・・【一部訳出不能】・・・モービット刑務所で費やした年月がマスローの人生ではおそらくもっとも活動的な時期だった。広範な通信を通じて、彼は党生活を密接に観察し、絶え間なく書き送り、党のあらゆる新聞と支部にたいしてだけでなく、ドイツ内外の他の組織に対しても新政策を説明し、擁護する論文を発送した。彼の影響力とともに、独立したドイツ党の周囲に独立した西側諸党が結集する可能性が増大した。
 スターリンは好ましくない報告をマヌイルスキーおよび在独する他の観察者から次々と受け取った。その意味は明白だった。ただちに行動せよ。もしドイツ党が現在の発展を許されるなら、これを引き戻してロシア人のもとに包摂することは不可能となろう―この時期にはスターリンといえどもコミンテルンの原則的な手続きを変更することは一般的に限定されていたことが思い出されねばならない。
 こうしてスターリンはマスローを彼の指導下に置くか、もしくはドイツ左派を粉砕することを計画した。攻撃の主要なポイントはまたしてもその労働組合政策だった。ドイツ左派は、ドイツにおける大衆行動の基礎が労働組合に置かれねばならない点でロシア政治局に同意していた。両者の違いは、労働組合政策で合意していないさまざまな極左グループにたいする対応にあった。ロシア政治局は彼らを放逐すべきだと要求したが、マスローはこれを拒否した。彼は、数万人を数えるこれらの過激派が、党が工業中心地で保持する最良の部分に位置していることを認識していた。
 スターリンにとって、共産主義者の労働組合政策の主要な目的は、組合操作の主要な道具である細胞を通じて組合に浸透することであり、それ以上にさまざまな工業スパイを浸透させることにあった。極左派は細胞活動が袋小路に行き着くことを直感し、ドイツ労働連盟から独立した労働組合を結成しておおっぴらに彼らと闘争すること、彼らの労組支配の独占を打ち破ることを望んだ(1)。この政策がこの時期に実現不可能であることをマスローは認識していたが、彼は共産党細胞にたいする呪物崇拝ともたたかった。彼の見解では、ドイツ労働者の命運は、巧妙に管理された細胞システムによって決まるのではなく、ロシア国家だけでないドイツ労働者の明白な利益をかけた統一行動が可能となるような政治的機運をつくりだすことによって決まるのだった。組合浸透政策に関するマスローのこの懐疑主義は、彼の反労組的態度を非難する長期にわたる悪口を結果した。
(1)1925年の統計で2103万3000人を数えた有業人口のうち、53.3%が工業労働者だったが、そのうちわずか415万6000人がドイツ労働連盟に組織されており、これは1923年危機から回復していなかった。
 1925年8月29-30日ブレスラウで開かれた第12回労働組合大会で議長が熱弁した。「未達成の1918年の偉大な理想に従う労働者階級の広範な層を深い失望が覆っている。社会主義組織の希望に労働者は身も心も捧げてきたが、これは中空に消えてしまった。すばらしい11月の夢は実現しなかった」。
 労組活動家の間のこの幻滅は、特に戦闘的な活動家のなかに顕著であり、この事実が当時の組合内部における共産党の活動を困難にした。「地区党全般には今持って組合に組織されていない共産主義者が膨大におり、ある地区では20%を越える程度である。たとえばレムシェイドのような重要都市でも・・・わが同志のなかでわずか30%が組合に属しているだけである」(フリッツ・ヘッカートの労働組合活動に関する報告・・・)。さまざまな分裂に続いて、共産主義者が主導するいわゆる独立労組がたてつづけに組織されたが、その総員は約30万人だった(プロトコル3巻・・・)。
スターリンがマスローにボリシェヴィズムを説明する
スターリンは1925年2月の初め、選挙の2ヶ月前に、ウィルヘルム・ヘルツォーグという共産主義者のフリージャーナリストへのインタビューでもってドイツ左派攻撃を開始した。用意された質問で、ヘルツォーグはスターリンにドイツ共産党に関する彼の見解を尋ねたが、スターリンは共産党の議会的支持の減少と労組における困難性への深い懸念を表明する機会を利用した。この家長の博愛は世界中に報道された。ドイツ党では、ジノヴィエフとマスローに対抗して書記長が介入を準備する以外の目的はないと受け止められた。後年の適切な礼儀作法を学んでいなかったコミンテルンのドイツ代表団は積極的に抗議した。ベルリンの機械工マックス・ヘッセはモスクワの介入にたいして粗野でシニカルなベルリンのスラングを使って激怒した。彼は、ヘルツォーグが〔左派を〕操作する卑屈な道具に自ら成り下がったことを、反撃を招く言い回しで非難した。ヘルツォーグのインタビューはドイツ党に敵意を抱かせただけだ、とマヌイルスキーは報告した。
 マスローは、モービット監獄の中から鋭い書簡をスターリンに送った。彼は政策変更の必要は認めたが、ドイツ党の組織問題にスターリンが個人的に介入することには強く反対した。政権の座にある「プロレタリア国家の党」が、さまざまな要素からなる1グループ、共産党の生活に介入すれば、平等な協力関係の基礎を破壊し、破滅的な結果をもたらすであろう。
 これに答えて、スターリンは党の言葉で書かれた長文の書簡をものし、そのなかで彼はマスローが自分の側につくよう新しく正確な申し出を行った。これはマスローの弁護士クルト・ローゼンフェルドによってモービットに届けられた。これは、当時ロシア党が他の諸党に浸透した方法のすばらしい事例として、全文を載せるに値する文書である。未刊行のスターリン選集のどれにも、世界中のあらゆる党の指導者や希望なき指導者にかかれたこんな文書が載ることはないであろう(2)。
 
(2)ロシア語で書かれた書簡の原本は、ナチスがマスローのアパートを1933年に襲撃したときに失われた。このテキストはドイツ語にマスローが翻訳し、ドイツ左派月刊誌Die Aktion1926年9月、第14巻、No9に掲載されたものを元にしている。
                      1925年2月28日
尊敬する同志マスローへ
 2月20-25日付けのあなたの書簡を受け取りました。まずなによりも、あたたへの挨拶と、あなたがすぐに刑務所から解放されるようにという私の熱い願いを受け取ってください。
 さて仕事にかかりましょう。
 第1:あたたは、あなただけではないが、ヘルツォーグとの一件をあまりにも膨らませている。彼が党員であるというだけでなく、彼が私へのインタビューを懇願する同志ゲシュケの書簡を携えて私のところへやってきたので、私が彼を払いのけることはできなかったし、そうはしませんでした。その書簡の写しをあなたに送りましょう。オリジナルはすでにドイツ党中央委員会に送ってあります。このインタビューだけで、同志ゲシュケの要請があったというだけで、ロシア党中央委員会がブランドラーに向きを変えたとか変えようとしていると断定するのは、ハエから象をつくるというか、無から象をつくるようなもので、宙をつかむだけでしょう。
 もしロシア党中央委員会が、とりわけジノヴィエフとブハーリンが、あなたや他のドイツ中央委員会メンバーがロシア中央委員会はブランドラーとタールハイマーに同情し、左から右へ転換しようとしていると疑っている、と知れば、彼らは笑いのあまり窒息するでしょう。再度申し上げますが、あなたはあまりにも不振を抱いており、それゆえに間違っています。
 第2:ドイツ党が巨大な成功をかちとってきたとあなたが言う時、あなたは完全に正しい。タールハイマーとブランドラーは疑いなく時代遅れの古いタイプの指導者であり、新しいタイプの指導者に譲歩しなくてはならない。ロシアのわれわれと同様、「古い指導者」は文字通りに継続して消え去らねばなりません。この課程は革命的危機の時代には増幅し、戦力を結集させる時期には減退するでしょうが、いずれにせよ継続して行われました。ルナチャルスキー、ポクロフスキー、クラーシン―これは、第2バイオリンを弾きに行った以前のボリシェヴィキ指導者たちの、今私の心に浮かぶ最良の名簿です。生きて発展する党の指導カードルをかくしんするために、これは必要な課程です。ちなみに、ブランドラーとタールハイマーやこのタイプの同志たちの違いは、社民党の砂袋の後をよたよたついていく・・・〔訳出不能〕・・・この違いは、あなたもご存じのように、ブランドラーとタールハイマーの長所ではなくて、その反対です。ドイツ党がブランドラーとタールハイマーを排除し、叩き出すことに成功したという事実だけが、ドイツ党が成長しており、前進しつつあり、次々と成功をかちとっていることを示すのです。私はあなたが書簡のなかで完璧な正確さで書いたドイツ共産党の成功について語っているのではありません。今や(ロシア)中央委員会にドイツ共産党の発展の車輪を逆転させようとする者がいるかもしれないと信じることは、ロシア共産党中央委員会をあまりにも見下した見解です。
 もっと賢明になりなさい、同志マスロー。
 第3:あなたはドイツ共産党の方針について語ります。あなたの方針―私はあなたの政治方針について語っています―は疑いもなく正しい。これが、あなた自身が書簡で触れているロシア共産党とドイツ共産党の親密な関係―同志的関係よりよい関係―についてのまさに説明です。これはロシアやドイツ党の政治活動上の誤りをわれわれが総計しなくてはならないことを意味するでしょうか? もちろんそうではありません。ドイツ党もロシア党もいかなる間違いからも自由であるなどと誰がいえるでしょうか? ドイツ党中央委員会への部分的な批判(プロシア国会でよく知られた共産党議員バーマットが、大統領選挙の際、ドーズ案に関する課税問題をじゅうぶん利用しなかったことなど)が、ドイツ党中央委員会の全般的政策における完全な団結と両立しない、などと言えるでしょうか? もちろん誰にもそんなことはできません。
 もしわれわれが党の間違いに目を閉ざすなら、われわれの党はどうなるのか、たとえばコミンテルン執行委員会でわれわれが会った時にお互いに尋ねてみましょう。もしわれわれが完全な理解と完全な寛容とに夢中になり、もしあらゆることでお互いイエスと言っていたら? こういうたぐいの党は革命党たりえないと私は信じます。これはゴムタイヤを生産するでしょうが、革命党は生み出しません。
 何人かのドイツの同志たちはドイツ党中央委のすることすべてにわれわれがイエスということを望んでいるような印象を私は受けています。私はこの相互イエスにもっとも精力的に反対します。あたなの書簡によれば、あなたもこれに反対している。ドイツ党にとって大変よいことです。
第4:私は違いのある同志たちを放り出すことにもっとも決然と反対しています。私がこうした政策に反対するのは、違いのある同志たちに同情するからではなく、こうした政策が党内に脅迫体制、恐怖体制、自己批判と主導性の精神を育てない体制をもたらすからです。もし党指導部が尊敬されるのでなく恐れられるなら、これは間違いです。党が恐れるのではなく敬意を払い、その権威を認めてこそ、ほんとうの党の指導者だといえます。こうした指導者を生み出すことは困難です。これは長期にわたる複雑な過程ですが、絶対に必要なことです。今回のケースは、党をほんとうのボリシェヴィキと呼ぶことばできず、党の規律はほんとうの、自覚的な規律となりえません。私の意見では、ドイツの同志たちはこうした自明の真実を傷つけています。
 同志トロツキーと彼の支持者を否定するなかでわれわれロシアのボリシェヴィキは、トロツキズムの基礎に反対しボリシェヴィキの基礎を固めるため、もっとも重大な規律明確化運動を始めましたが、これはロシア中央委員会の強さと特別な比重を基礎のうえでのことで、われわれはこの運動なしでもやっていくことはできたでしょう。われわれにこの運動が必要だったのか? 絶対に必要でした。というのは、これによってわれわれは数十万人におよぶ新党員(および党外の人々)をボリシェヴィキ精神で教育したのです。わがドイツの同志たちが、広範な規律明確化運動によって反対意見を抑え込む方策の準備と完遂の必要を感じていないのは残念なことで、そうすることで自ら党員とカードルをボリシェヴィキ精神で教育する課題をより困難にしています。ブランドラーとタールハイマーを投げ出すことはたやすい。これは難しい課題ではない。しかしブランドラー主義を打ち負かすことは、複雑で深刻な問題です。懲罰的な手段のみによっては〔ブランドラー主義を〕傷つけることができるだけです。土壌を耕し、党員を真剣に啓発することが必要なのです。
 ロシア共産党はつねに非共産主義的な潮流にたいするアンチテーゼとして発展してきましたが、この闘争においてのみロシア共産党は強くなり、真のカードル層を統一しました。ドイツ共産党は、ブランドラー主義と並んでとりわけ社民党の伝統という非共産主義的潮流真にたいして、真に重大で長期にわたる闘争、アンチテーゼによる発展の同じ過程に直面しています。しかしかかる課題に取り組むには大衆的な懲罰的手段では不十分です。この理由から、ドイツ中央委員会の党内政策はより柔軟でなくてはならないと私は信じています。私はドイツの共産主義者たちがこの観点から欠点を乗り越えることを疑っていません。
 あなたは労働組合における活動に関しては完全に正しい。ドイツにおける労組の役割はロシアでのそれとは異なります。ロシアでは労働組合は党の後に勃興し、それらはまさに党の補助的な機関です。これはドイツとまったく異なっており、ヨーロッパでは全般にそうです。ここでは党派労働組合のなかから発展し、労組は大衆への影響力において成功裏に党と張り合っており、しばしば党の足元に鉛の塊のようにぶら下がっています。もし誰かがドイツあるいは一般にヨーロッパの広範な大衆に、労組と党のどちらの組織が彼らにより緊密な関係をもっているかと尋ねれば、彼らは疑いもなく党よりも労組に近いと答えるでしょう。良かれ悪しかれ、ヨーロッパの非党員労働者は資本主義とたたかう(賃金、労働時間、保安などなど)彼らの主たる要塞として労組をみなしており、他方で彼らの評価では党は必要だが二義的な重要性をもつ補助者にすぎません。これが、なぜ広範な労働者大衆が極左派の労働組合にたいする外からの闘争を、何十年にもわたって築き上げたのに今や「共産主義者」が破壊しようと望んでいる彼らの主たる要塞に反対する闘争だ、とみなしているのかを説明します。もしこの特殊な性格が考慮に入れられなければ、西側の共産主義運動の全般的な基盤が根絶することでしょう。しかしここから2つの結論が引き出されなくてはなりません。一つには、西側ではわれわれ組合内部で活動し、その内部でわれわれの影響力を拡大することなしに労働組合を制圧することはできません。このため、われわれは労働組合内部のわれわれの同志たちの活動に特別な注意を払わなくてはなりません。
 さしあたり以上です。
 私が率直で鋭角的だからといってどうか怒らないでください。握手を送ります。
                ヨセフ・スターリン
 この書簡は、国際的ヒエラルヒー内部の潜在的な同盟というスターリンのテクニックを盛り込んだ文書モデルだが、マスローが追放された1年半の後にようやく公表された。書簡は申し出と脅迫だった。ジノヴィエフの名前は言及されていないが、時代遅れの古い指導者というほのめかしで十分だった。これはスターリンがあらゆる共産主義者の寛大な家長というポーズをとった最初の事例の一つだった。こうした個人的なジェスチャーへの返答として、スターリンは彼の人格と政策にたいする忠誠の誓いを期待した。
 同じくローゼンフェルドを通じてマスローは、この単刀直入な企てにたいする辛辣なコメントを加えた彼の解釈を添付し、手紙の原文を私に送ってきた。私はモービットに彼を週2回訪問することが認められており、ドイツ問題にあまり近づかない限り、かなり自由に最近の諸問題を討論することができた。われわれはスターリンの申し出をジノヴィエフにたいする危険の兆候だと解釈し、彼を支持することを決めたが、もしジノヴィエフがコミンテルンから排除されれば、もっとも横柄で排外的なタイプのロシア人が取って代わるだろうと意見が一致したからだった。われわれは彼のコミンテルン政策にぜんぜん満足してはいなかったが、それでも彼はコミンテルンのロシア化にたいする最後の薄い障壁なのだった。
 この書簡はドイツ中央委員会でもマヌイルスキーの提起によって正式に討議された。そこでは丁重な党のフレーズの背後にある意味をあまり明確に認識することは不可能だったが、全中央委員が行間を読んでマスロー支持、スターリン反対を全会一致で可決した。
 1925年4月に開かれたロシア党第14回党協議会では、スターリンとジノヴィエフとの衝突は非妥協的な形をとった。コミンテルンはすでにGPUに侵食されており、ジノヴィエフはもはや彼自らの機構の主人ではなく、最大限の困難をもって彼の国外の支持者たちにメッセージを送ることができただけだった。マヌイルスキーは、いかなる犠牲を払ってもベルリンに介入して左派を指導部から排除するよう秘密指令を発した。これは左派の誤りにたいするもっともな批判の背後に覆い隠され、ジノヴィエフはチャンスをうかがいながら、党の規律によってこの介入を支援するよう強制された。
マヌイルスキーVSドイツ左派
 決定的なドイツ党の大会が開かれる前に、マヌイルスキーはスターリンのために一つの小さな勝利を獲得した。独立労働組合のもっとも熱心な支持者を追放したのである。彼が驚いたことに、またマスローの全面支持の下で、党は除名された人々とすばらしい関係を続け、彼らと地方レベルでの協力関係を維持した。それ以上に、党内の極左派はなおもベルリン、ルール、パラティネイトでかなりの支持を得ていた。彼らが選出した大会代議員の数は、指導的な委員会に2人の代表を得るのに十分だった。彼らはヴェルナー・ショーレムを組織局に、アルトゥール・ローゼンベルグを政治局に選出した。
 ヴェルナー・ショーレムは、才能ある組織者で、モスクワに何度も派遣されており、そこでスターリンと会っていた。書記長は彼を心底嫌っていたが、それは超ボリシェヴィキ的な用語で表現されたいかなるアピールも、彼がベルリンっ子の荒削りな皮肉で受け流したからだった。彼はUSPD〔独立社会民主党〕のメンバーだったことを誇りとしており、常にUSPDを労働者組織の模範とみなしていた。裕福な家族の息子だった彼は、カイザーの戦争に反対するため家を出て急進的平和主義者となった。ウィルヘルム2世にたいする不敬罪で告発され、1年間の懲役を言い渡された年、1914年に彼は軍隊に徴集された。戦後彼はハレの党新聞の編集者となり、プロシア国会議員となった。すばらしく辛辣な演説家だったので、たちまち彼は共和国じゅうで知られる存在となった(3)。
 
(3)ショーレムはスターリンにたいする反対のゆえに1926年に党から除名された。彼はナチスが1933年に彼を投獄するまで、反スターリンのたたかいを党外で続けた。あちこちの強制収容所に監禁されたが、ナチスと共産党の被収容者双方から抑圧を受けたあげく、SSの指導者ブランクによって1940年の夏ブーヘンバルトで彼は殺された(ベネディクト・カウツキー、Teufel und Verdammte, Zurich, 1946, p.116を参照)。カウツキーは収容所のカンガルー法廷について報告している。これは、SS監視の下で政治的反対派に死刑を宣告し、執行するというものである。「共産主義の異教徒は社民党よりもひどく扱われたが、社民党員は非常に少数で、トロツキスト、ブランドラー主義者、労働組合反対派などなどとレッテル貼りされた」(カウツキー、p13)。
 
 モスクワが指導するもったいぶった規律明確化運動を当面は脇において、マヌイルスキーは3つの分派とその確執する政策すべてにコミンテルンの支持を見境なく与えた。彼はとりわけマスローの国会主義およびブルジョア中央党との連合にたいする極左グループの不満に格段の同情をもって聞き入った。この日和見主義的な転換は、彼がお世辞たらたらで認めるには、ドイツ革命への重大な危険を構成していた。彼は、党内選挙でほとんどの支持を失った右派に、もっと給与の高い党の職務を要求しろ、モスクワの援助で支払われるようにと激励した。国会議員団と地方議員は、共産党への投票が縮小していることへの彼らの懸念をマヌイルスキーが理解していることを見出したが、彼はその理由を左派の狭い政策に原因があると説明した。とうとう私にたいしては、極左派にたいする原則的闘争にスターリンの無条件の支持を約束した。
 党のいかなる部署の官僚機構も、マヌイルスキーに同情的な聞き役の姿を見出した。党は1923年の蜂起以来、膨れ上がった機構を繰り越しており、これはモスクワからのかなりの財政援助によってのみ維持することができた。左派のランクアンドファイルは、これら給与生活の職員を取り除くよう切望し、選挙で選んだボランティアで置き換えることを望み、モスクワから財政的に独立すべきだという主張を頑強に譲らず、ショーレムに党組織を削減するようひっきりなしに要求した。解任されたこれらの人々の誰しもが、マヌイルスキーとスターリンに不平を述べ立てたが、その内容はつねに政治的理由で解任された、というものだった。マヌイルスキーはこのようにして、元官僚たちの保身と労働組合への浸透という共産主義的政治の万能薬とを結びつけることが可能となった。
 ブランドラーの中央委員会はフリッツ・ヘッカートとヤコブ・ヴァルチャーの元に労働組合特別部局を組織し、これがプロフィンテルン議長A・ロゾフスキーに定期的な報告を提出していた。このチャンネルによってスターリンは党に関するだけでなくドイツ産業およびドイツ経済の際立った特徴すべてについて詳細な報告を入手した。ここの数十人の職員はドイツ中央委員会からは独立した生活を保持しており、表向きは中央委の公式の権限で設立され維持されてはいた。そこでは常にプロフィンテルンから派遣された3ないし4人のロシア人専門家が事務所で働いていた。マヌイルスキーは、この機構は削減してはならないだけでなく継続的に拡充すべきだと主張した。
 この論争は、労働組合についてとか、どうやって労組内部で活動するかというよりも、ドイツ党にモスクワが補助金を与えるというデリケートな問題だった。実際のところ、党は自らを財政的に支えるだけの大きさを十分備えていた。党費は、伝統的な社会民主党の党費よりいくらか高かったが、総じてかなりの額になった。それ以上に、数百人にのぼる国会および各種議会の共産党議員団は、党の機関とはいっても国家から支払われており、これに加えて議員各自の収入の一部を党に献金するよう求められていた。モスクワは、党の活動を単なる操作手段とするため、党が自費で可能な範囲を超えて宣伝を拡大する必要がある、と常に主張していた。党の年間予算はベルリンで作成されたが、モスクワの人間を喜ばせ、黙認してもらう、という配慮が常にあった。財政が配分される必須支出項目のリストは、現在のロシアの政策に適応しがちだった。1921-1930年の間、コミンテルンの駐在官はミロフ・アブラモフだったが、党に資金を振り替える責任を負っていた。
 ドイツ党の第10回大会は1925年7月12日ベルリンで開催された。170人の代議員のうち142人が職場をもつ労働者で、他党のさまざまな代表も参加し、そのうちの一人は中国からきたシャだった。マヌイルスキーは、コミンテルン代議員として、サムエリという名前で大会で報告することになっていた。代議員たちは、ワイマール共和国というマスロー路線について事前に十分な議論をした後で選出され、かなりの多数がこれを支持せよという委任状をもって参加した。
 さまざまな分派に中央委員と政治局を配分するうえでいちばん難しかったのは、右派を誰にするかという問題で、ウィルヘルム・ピークは自派の内部ですら不適切だとみなされていた。これは、ブランドラーの前任の政治局議長で、それ以前はローザ・ルクセンブルクの友人でもあり弟子でもあったエルンスト・マイヤーで決着した。第5回コミンテルン大会で左派の追放を主張したマイヤーを党の指導部に直接受け入れたことは和解の兆候だった。彼の根本的な立場は変わらず、自らの党員集会に忠実ではあったが、1923年以降の経験から左派への評価を転換し、モスクワからもっと独立すべきだという左派の意思に同情的だった。
 当初から大会の結果は明白だった。政治課題で大会は分裂するだろうけども、マスローの政策と反対派が強力な多数派をなし、じゅうぶん民主的な代表を構成することに満足し、この多数派とともに友好的に活動することに満足するであろう。この展開はマヌイルスキーに警告を発したが、というのもマスローのモスクワ批判にたいする全般的な合意が存在したからだった。もし党がもはや操作できないのであれば、その党の統合はこれを操作する人間によって強力に反対されるだけだった。彼の仕事は明白だった。何らかの手段でドイツ党の3つの主要な分派が一つの活動体に統合されるのを防止することである。
 大会を妨害する公の出発点を見出すことはマヌイルスキーにとって困難だった。彼は大会テーゼを吟味したが、マルクス主義の原則を擁護するために介入するいかなる口実も見出すことができなかった。新中央委員の選挙の直前、彼は必要な劇的緊張を作り出した。大会議長は鉄道労働者オットーマル・ゲシュケで、彼はいつもの組合的な快活さで議事を運営していた。討論の間、マヌイルスキーは議長がすでにほかの発言者を指名した後で発言を求めた。ゲシュケはマヌイルスキーに彼の順番まで待つよう求めたが、この常識がコミンテルン代議員によってインターナショナルの規律違反としてドラマ化された。彼が言うには、彼は党大会のいかなる瞬間でも介入する権利があるというのだった。彼は手続き
の延期と中央委員の集合を要求し、中央委に向かってコミンテルンとロシア党は大会議長によって傷つけられた、と主張した。彼は反抗者の精神と、この事件が象徴する彼らの不信感とを批判し続けた。さらに、より重要なことは、反ボリシェヴィキ菌のこの兆候―と彼は言った―は極左派が党指導部に入ることと一体であり、ローゼンベルグとショーレムを指導的委員会の指名リストから除外するよう要求した。大会は非公開審議でこのコミンテルン代議員の介入を断固拒否し、提出されたリスト通りに選挙を行った。闘争は続いた。今やモスクワとのおおっぴらな衝突の段階にあることは党にとって明白だった。非公開審議で、代議員たちは一体となってロシア政治局に反対する決意を示した。ランクアンドファイルは、テールマンやフィッシャーといった左派指導部ですらあまりにも融和的なのではないかといぶかった。党員は、自らの指導部を選び、自らの組織律を決定するドイツ党の権利を頑強に防衛することを求め、ロシアからの介入にたいして断固たたかうことを要求した。
ドイツ党への公開書簡
 大会の後、マヌイルスキーはモスクワに帰って、コミンテルンでもっとも重要なドイツ党が離脱する危険性についてロシア政治局の会合で報告した。マヌイルスキーは、諸党と連合するというジノヴィエフの主張が、ドイツの指導による「第4インターナショナル」を長期にわたって準備し、差し迫った可能性をもつと主張して、ジノヴィエフに反対する武器をスターリンに与えた。彼の報告によると、ドイツ左派は1924年以来そのための資金を控除しているというのだった。政治局にたいする外国人の陰謀という示唆によって告発され、ジノヴィエフはドイツ左派を非難し、是正する方策をとることで忠誠を誇示する以外の選択がなくなった。
 大会は会計係に左派のアルトゥール・ケニヒを選出したが、コミンテルン資金はウィルヘルム・ピークとフーゴ・エーベルラインの下にあり、彼らは主要にドル外貨で補助金を受け取り、月々の現金支出を支払っていた。これらの金額を銀行に預金することは不可能であり、この時期まではどこかに隠されて必要があるたびに引き出されていた。エーベルラインが奨励したこともあって、ケニヒはこれらの未使用資金を活用しようと試みた。これを投資して党に何らかの収入をもたらそうとしたのは彼の意思だったが、同情的な資本家に投資しうるだけだったので、この計画はうまくいかず、決定的な財政的失敗で終わった。これら共産主義者の企業体は、赤色戦線の制服をつくっていた某F・アルリッヒ所有のチェムニッツにある小さな織物工場、蓄音機工場、コンスタンス湖の印刷所だった。さまざまな企業家との折衝は幾多の接待を伴い、これがエーヴェルラインやケニヒだとわかったウェイターやバスボーイはベルリン中にうわさを撒き散らした。
 ロシア政治局はインターナショナル統制委員会にドイツ党のこの状況を調査するよう求めた。彼の財政上のヘマにもかかわらず、調査はマスローや私たち指導部を傷つける十分な証拠を掘り返すことができず、ケニヒの疑惑は晴れた。マスローは獄中にあり、私は党財政に何の関係もなかった。ジノヴィエフは、ウィルヘルム・ピークだけがソヴィエト大使館から資金を受け取っており、彼と彼の友人フーゴ・エーベルラインだけが党の資金を管理している、という事実を指摘することができた。
 
1923年の蜂起が失敗して後、在独OMS職員であるミロフ・アブラモフは、モスクワのピアトニツキーと同様、今ではコミンテルン資金を誰に預けたらよいのかをずっと憂慮していた。ウィルヘルム・ピークが新中央委員に留任した時、この信頼できる古参の労働者指導部はピアトニツキーにとってもミロフ・アブラモフにとっても救いだった。
 
 この事件があった時、ハインツ・ノイマンがドイツにおける主要なスターリン支持者の一人となった。
 裕福な両親の下に生まれ、ノイマンは16歳でブルジョア的な家庭と生活環境を離れ、社会主義青年団に参加した。彼はヨーロッパ全域を半ば放浪者、半ば伝道者として渡り歩き、簡単なフランス語、イタリア語、ロシア語を身につけた。1922−1924年の間、彼はコミンテルン会議の通訳としてモスクワに赴き、コムソモールの彼の友人の何人かが彼をスターリンに紹介した。懸命で野心的な青年をスターリンは気に入った。ドイツ党では、左派内部の青年指導者の一人、マスローの忠実で熱心な支持者としてベルリンの外に知られていた。ノイマンは不可避的に党の秘密活動に引き込まれた(7)ーワルター・クリヴィツキー、「スターリンの秘密機関」、p54)。スターリンはこうした活動を知るとともに、この青年が彼を崇拝していることを知った。
 ベルリン大会の直後、スターリンはノイマンをモスクワに呼び寄せ、そこで彼はマスローの西側共産主義に反対するパンフレットを執筆する課題を与えた(8)。この時まで彼は党に重要な仕事をしてはきたが、指導的な地位に選出されたことはなかった。スターリンは彼をドイツ中央委員会に推薦することを約束した。この「告白」は、ドイツ党の雰囲気を変えることを意図したものだったが、コミンテルン内部にセンセーションを引き起こした(9)。
 
(9)ハインツ・ノイマンは長い間スターリンの格別の側近で、当時ロシア語を話すことができた数少ない一人だった。彼はスターリンの近親者の飲み会のゲストで、彼の生き生きした知性と国際的な背景によって、スターリン権力の台頭の秘密を誰よりも知ることとなった。1927年12月に彼と「ベッソ」・ロミナッゼというコミンテルンの青年指導者は、いわゆる広東コミューンを組織するため中国に派遣された。ドイツに帰ってからノイマンは、ナチスの台頭に勇敢に反対し、しばしば街頭実力闘争に関与した。
 1931年の夏、共産党のナチ寛容政策にノイマンが反対したため、テールマン秘書という彼のポストが剥奪された。1932年2月、再度モスクワの指令によって、彼はドイツ政治局から下ろされた。5月に彼はモスクワに呼び戻された。そこで彼はドイツ政策についてスターリンと長時間話し合ったが、この時の会話を後に彼が報告した内容が、当時のスターリンのドイツ政策の内容に関するもっとも重要な証拠の一つである。1932年8月、彼をドイツの党生活から完全に排除するため、ノイマンはコミンテルン代表団の一員としてスペインに派遣された。この中にはMedina、アルゼンチン人、ポーランド人のザルツマンも含まれていた。その年の終わり、ベルリンからの報道に困惑して、ノイマンはドイツ政治局内の彼の友人ヘルマン・レンメレに、差し迫る崩壊から党を救うために精力的にドイツ党の方針に反対する必要がある、と書き送った。ナチスは翌月には権力を掌握し、1933年3月、レンメレがモスクワと闘争した後、この書簡はGPUに発見され、コミンテルン司令部に送付された。ノイマンはスペインを離れてチューリヒに向かうよう命じられ、そこで彼はコミンテルンのヒエラルヒーと何の接触もないまま恥辱のうちに暮らした。彼は党の出版社からわずかな仕事を割り振られて不安定な収入を稼いだ。彼はドイツを離れる直前にSSの男を襲撃しようとした可能性があるという理由でナチス政府が彼の引渡しを希望し、スイス警察は1934年12月にパスポート偽造容疑でノイマンを逮捕した。数ヶ月の交渉の後、彼はとうとうロシアへ行くことが許可された。1935年6月、彼はル・ハーブルで乗船した。モスクワに帰ると、ノイマンと彼の妻は翻訳家としてわずかな仕事が与えられた。ピアトニツキーはカナダ人技術者というパスポートを与えてブラジルに派遣することで彼を救おうとしたが、最後の瞬間になって段取りがご破算になった。インターナショナル統制委員会の2年におよぶ間歇的な取調べの後、1937年4月にノイマンはドイツ党内での反革命活動の罪で逮捕された。とりわけ、1930年にフリッツ・デヴィッド(1936年裁判の被告)を「赤旗」編集者に任命したことで、スターリン暗殺計画を促進したというのだった。ノイマンは疑いもなく死んでいるが、いつどんな状況で彼が死んだのかは知られていない(パウル・メルケルはノイマンの反対についてあいまいに触れている。「ドイツ、生きるべきか死すべきか」1巻p.256参照)。
 1946年、ある小冊子(Deutsche Blatter、1946年)は、1940年に、全員スターリン反対派の親族からなるドイツ人女性のあるグループが、GPUからゲシュタポに引き渡され、レーヴェンスブリュックの強制収容所に収容された、という匿名の報告を掲載した。この小論の筆者はハインツ・ノイマンの未亡人、グレーテブーベル・ノイマンで、彼女は今もストックホルムで生きている。ノイマン夫人は親切にも未公刊の興味深い覚書を私に読ませてくれたが、そこには彼女が1938年に逮捕されてからのカラガンダ収容所での生活、ゲシュタポに引き渡されて後のレーヴェンスブリュック収容所での生活の詳細な証言が含まれていた。
 
 精査を棚上げにしつつ、ドイツがコミンテルンから離脱しつつあるというノイマンのパンフレットとその他の報告によって、ドイツ党左派フラクションの政策を批判し、マスローと私を指導部から排除はするが左派中央委員会は保持する、というジノヴィエフのドイツ党宛て公開書簡を発する約束を引き出すことができた。完璧な技によって、スターリンは両刃の道具を考え出した。彼の発案にもとづいて、ロシア政治局はコミンテルン議長ジノヴィエフにこの公開書簡を送付するよう命じ、こうして彼のコミンテルンにおける権威が弱まったことを示すとともに、ヨーロッパの共産党における彼の唯一の支持基盤、ドイツ左派をはぎとった。いつスターリンを公に攻撃することができるのか、ジノヴィエフはまだ判断していなかったので、彼は党の規律に従い、策略によって打撃を制限できるという無益な幻想を維持した。
 その準備段階で書簡の起草について討議するため、ジノヴィエフはドイツ党代議員をモスクワのコミンテルン執行委員会幹部会に招請した。代議員は以下の通り。エルンスト・テールマン、ルート・フィッシャー、フィリップ・デンゲル、ウィルヘルム・シューマン、エルンスト・シュネーラー、ジョニー・シェル、オット・クーネ、マクス・シュトレッツェル、そしてハインツ・ノイマン(10)。
 
(10)クーネは後にGPU職員となり、ヨーロッパ各国にさまざまな任務を帯びて派遣された。1946年に彼は在仏ドイツ政治難民を暗殺する責任者としてパリに現れた。シェールはナチスが権力をとってすぐに殺された。シュネーラーは1933年にナチに投獄され、1939年か1940年に強制収容所で死んだ。デンゲルは1944年まで自由ドイツ委員会宣言に名を連ねていたが、突然姿をくらませた。
 
 ドイツ共産党日刊紙の3ページの小印刷物(11)に掲載された公開書簡は、マヌイルスキーが党の統合を妨害しようと試みたあらゆるテーマを焼き直していた。第一にマスローとフィッシャーを他の左派から分断しようとした。それまで全ての政策が、全会一致とはいかずとも、中央委員会の投票で多数派によって議決されてきたのに、この二人だけが党の誤りに責任を負っているとされた。他のメンバーは反コミンテルン政策を受け入れるよう強姦されたのだった(12)。
 ドイツの同志たちを説得するのは困難で、何人かの代議員と数週間討議しなくてはならなかった、というコミンテルン執行委員会の報告を長い導入として後、公開書簡は三つの重要で込み入った問題として取り扱われた。第一に、フィッシャーとマスローの右翼的偏向および彼らが国会戦術に依存する傾向。第二は労働組合問題で、とりわけ大規模な労働組合特別部門を党内で再建する必要。第三に、ブランドラーにたいする党内生活と態度。
 まず国際情勢が論じられた。帝国主義戦力の反ソビエト的「集中」がある(モスクワ周辺の政治的・軍事的環。イギリスの政策および安全保障条約)。公開書簡は続けた。
 
―この複雑な問題のたいへん重要な位相は、ドイツが新たに西に向いていることをはっきりさせる必要がある。この位置づけの変化は人々に異なった雰囲気を生み出してきたが、これはある程度階級意識を欠いたプロレタリアートに反映している・・・労働者階級の腐敗した部分、いわゆる「反モスクワ」傾向の増大が見られるが、新しいブルジョアの台頭の反映である。部分的には、この雰囲気はドイツ共産党にも存在する。
 
 フランクフルト大会の後、執行委員会はドイツ中央委員会に極左派の追放を要請する電報を打ち、これが党の全地区に配布された。公開書簡は、これがただコミンテルン執行委員会に反対して党を怒らせるためにだけなされたのだと不平を述べた。数ヶ月後、コミンテルン5回大会の時、ルート・フィッシャーは労働組合の世界的団結のスローガンが、単にソヴィエトの対英政策を支える策略にすぎないと非難してこれに反対した。
 
―彼女は、労働組合の国際的団結のためのたたかいが「ロシアの対外政策というチェスの一手」であり、マクドナルド社民党政府に接近する試みにすぎないと公言した。
 
 左派の反ボリシェヴィキ的メンタリティは、労働組合活動のために常任活動家の大集団を雇うことへの反対にも示された、と公開書簡は続けた(再度、この点は右派をひきつけた。彼らはこれらのポストに飢えていた)。左派は悲観的であり、今もそうである。左派はドイツ革命が近いと信じていない。特にマスローは槍玉に挙げられた。
 
―マスローの著作は異端であるが、レーニン主義の基礎および現在の共産主義インターナショナルにたいする特別に危険な攻撃である。
 
 「1917年の2つの革命」(1925年)という彼の著作で、マスローはコミンテルン第3回世界大会の政策を批判し、そこで彼はドイツ党も間違いに責任を共有していると考えた。いくつかの文章が怒りの叫びとともに引用された。
 
―レーニンとレーニン主義にたいするこのぞっとするような攻撃は、どうやっても許容できない・・・「西側ヨーロッパ」的変更とたたかうという口実の下、これはいわば共産主義からの反ボリシェヴィキ敵偏向なのだが、マスローは西ヨーロッパ共産主義を最悪のものとして増殖させている・・・
 コミンテルン第3回大会以来、同志マスローのグループとコミンテルンとの関係は間違っており、反ボリシェヴィキ主義である・・・
 過去数年の間、同志ルート・フィッシャーは、ECCIの抗議を押し切って、コミンテルンのさまざまな部門に代議員を派遣し、執行委員会の政策が分派主義によって偏向されたと非難した。
 
左翼共産主義者の反逆精神の他の現れがマスロー論文の「ドイツ共産党第10回大会へのたびたびの言及」で、これはFunkeに発表されていた。そのなかでマスローは、1922年8月イェナ大会の後、コミンテルン執行委員会のドイツ共産党の政策への批判に批判に同意できなかったことから、ベルリン組織がモスクワに代議員を派遣するようにという勧告を拒絶した過程を述べていた。この逸話を報告することは、公開書簡の言によると「ドイツ労働者から見れば、共産主義インターナショナルを傷つけるという比類のない試み」なのだった。コミンテルンは疑問の余地なく正しいと公開書簡は何度も繰り返した。疑問の余地なくフィッシャーとマスローが間違っているのだった。
 党が彼の著作とパンフレットを、労働運動の伝統と両立しない「アメリカ的」やり方で宣伝したという理由でもマスローは攻撃された。再度彼はその悲観主義を非難された。現時点で権力奪取を想定するのは愚かだ、ドイツの政治生活で実体的勢力となるには少なくとも党は10年間の成長するための期間が必要だ、と彼は言っていた。
 左派と極左派との関係も何度も攻撃された。「大会の政治路線が極左派との闘争に向けられていたために、大会終了後、ECCIとあらゆる規律に反対して連帯すべし、というショーレム―ローゼンベルグの申し出が暗黙に受け入れられた」。この左派・極左派の連携はモスクワにとってとりわけ危険なものとして取り上げられた。
 おそらくスターリン主義者の介入の中でもっともくだらない部分は、党内民主主義を防衛するというくだりだった。民主的に運営された大会で選出されたばかりのドイツの指導部をロシアの書記長が事務所から排除する理由の一つが、彼らは十分に政治的民主主義を尊重していないから、というものだった。他方でルート・フィッシャーは、代議員たちは第10回党大会に向けて選出されたという政治信条にあまりにも拘泥しているといって非難された。基本的論理のこうした奇妙な放棄は、スターリンの論争術の主要な特徴であり続けている。
 公開書簡は、党を再編する別の方策を提起して終わっていた。ドイツ中央委員会は、ロシア中央委員会がレーニン死後にそうしたように、拡充されねばならない。中央委が大きくなれば、それだけモスクワ政治局の策略の余地が広がる。新たにマスローの国会主義をデマゴギックに否定しながら、党はその勢力を「純粋なプロレタリア大衆の政策」すなわち工場細胞の形成に集中すべきだと執行委員会は要求した。この純プロ政策の強調は単なるたわ言にすぎず、ドイツ共産党のいかなる政策もモスクワの望まざる方向に変化しないように、という意図が込められていた。
―〔書簡いわく〕過去のドイツ共産党の主要な誤りの一つはまさに、「高級な」「国会」問題に注意を向け、工場内での活動にあまりにも注意を払わなかったことにあった。
 
 1925年に召集された幹事会の会議に出席するため私がモスクワに到着した時、私は初めて公開書簡を読んだ。そこには、まさしく私自身がドイツ党の官僚主義的特徴を批判してきたことの一部と公開書簡でなされたいくつかの非難との間に表面的な同一性があったので、私はこれらの点を受け入れ、主に提起されている組織的な方策に反対することを計画した。この立場から、そのうちマスローが獄中から解放されるかもしれないという希望を抱いて時間を稼ぎ、いかなる場合でもドイツ党の間違いがあれかこれかという議論ではなくてモスクワからの独立を議論させよう、という二つを意図した。共産党内の討議で繰り返されたテーマ―労働組合政策、プロシア国会、その他―は討議し尽くされており、これらを蒸し返すことは党をさらに分裂させるだけだった。
 しかしスターリンは別の計画を抱いていた。幹事会の全メンバーは、私じしんも含めて、コミンテルンの規律の下、公開書簡に署名し、これを党内で擁護することが要請された。こうして私は自分じしんにたいする死刑保証書に署名し、私の罪を公に告白するよう駆り立てられた。
 ドイツ左派はなおも共産主義者の規律にたいしてあまりに高く尊重していた。これはわれわれの最大の弱点で、コミンテルンのロシア人「代議員」議長たるジノヴィエフはこれを最大限活用した。私の最初の決断として、私はこのゲームを拒否し、公開書簡にたいして公然とたたかうと宣言した。ジノヴィエフ、ブハーリン、マヌイルスキーは彼らの議論を繰り返した。あなたは執行委員会の非公開の会議で自分の見解を擁護し、公開書簡に反対投票することができるが、もしコミンテルンの世界的な最高権威が幹事会メンバー全員が書簡に署名しなくてはならないと決定すれば、あなたはボリシェヴィキの規律に反することなくこれを拒否することはできない。ドイツ党内で公開書簡を擁護しないわけにはいかない。あなたは共産主義インターナショナル幹事会のメンバーであり、第5回大会で選出されたのであり、この職務はドイツ党内でのあなたのいかなる役割より優先する。幹事会にたいするあなたの義務は何よりも幹事会にたいするものである。コミンテルンの規律は各国党の規律より優位にある。
 こうして階層的な規律が私にたいして適用された。もし政治局内で違いがあれば、多数派の議決が全員を拘束し、ボリシェヴィキの教えによれば、自らの見解を例え政治局内部であっても討議することは許されない。
 中央委員内で異論があっても、党内では委員会の見解を擁護しなければならない。党の決定はいかに党員がこれに同意せずとも党外ではこれを擁護しなければならない。こうしてあらゆるレベルの不同意も最小限グループに抑え込まれ、階層を一つ下りれば、上級組織の全会一致の委任が提起される。各級討議の秘密は神聖である。委員会のあるメンバーが下級ヒエラルヒーの支部の誰かとこれを討論すれば、深刻な犯罪に等しい。
 こうした規律を実行する方策は1925年8月に形成され、コミンテルンのレベルで遂行されたのはこれが初の重要な事例だった。この時まで、コミンテルン内で異論をもったグループは、聞く意思のある人すべてに自分の見解を述べ立ててきた。私のボリシェヴィキ的忠誠心への訴えかけは間違っていたが、もし私がこれに抵抗すればほかの誰も支持しないだろう、とジノヴィエフは別の私的会話で述べた。彼は私に率直に語ったが、彼の立場は危うくなっていた。コミンテルンはロシア党によって全方位から砲撃されていた。他方、ロシア党第14回大会が数ヶ月以内に召集される予定で、彼はこの傾向を覆すことを望んでいた。マヌイルスキーにマスローと私をドイツ政治局から排除させるのがスターリンの意思で、彼はこれを阻止することができる、と私に知らせた。ドイツ国内のあなたの友人は、あなたがかつて精力的に闘争してきた政策に署名して賛同すれば、これが単にコミンテルンの公的な規律の故であることを理解するだろう、と彼は続けた。党の間違いにたいして責任を引き受けることも指導者の役割であり、そうすることであなたは自分にたいする個人攻撃を防ぐことができる。このあいまいな立場を数ヶ月しのぐうえで、ドイツ党内のあなたの立場はじゅうぶんに強いし、それから後でわれわれはドイツとロシアの党内の敵と公然と闘争できるだろう。
 こうして私は、幹事会で反対投票した後で書簡に署名した。われわれの哲学的な計算すべてが、完璧に間違っていたことが判明した。公開書簡はスターリンの権力を強化しただけだった。
 私がドイツに帰ると、スターリンの攻撃が全面化した。ショーレムとローゼンベルグはすでに中央委員会から排除されていた。スターリンはローゼンベルグに復帰を約束し、当面彼がテールマンと協力することで彼の国会における外交委員会の地位を保全したため、この2人を分断することが可能となった。マヌイルスキーの監督下で党は「正常化」と「ボリシェヴィキ化」を議論していた。しかしロシア党の分裂はその時は水面下で、この討論は通常この問題に傾いたが、もちろんこれはタブーだった。コミンテルン規律と分派抗争のいずれにもかかわらず、党は全体として公開書簡およびこれが意味したロシアによる支配を拒絶する傾向を示した。おそらく党は、ブランドラーをベルリンで指導するマヌイルスキーよりも、この時期獄中にいたマスローに政策の責任を負わせたかった。私は公開書簡をベルリン、エッセン、シュツットガルトで批判し、ここでは反モスクワ的立場にたいする実体的で成長しつつある支持が存在した。私は、スターリン介入の初めの数週間ほど、党内で真の共感を感じたことはない。
 1925年9月、マスローは危険な共産主義の指導者として、とうとう共和国最高裁に引き出された。大半の証拠は「1917年の2つの革命」に依拠しており、この本は獄中で書かれていた。マスローは法廷開会期間中に公開書簡を知り、党内で自らの政策のためにたたかえるよう、可能な限り短期の刑を得ようと配慮した。テールマン政治局の大半は、マスローの党内での反対意見を恐れるよりも、モスクワの介入とたたかうためにマスローの援助を求めており、弁護活動において告訴の弱点を全面的に活用することを認めた。1923年蜂起は存在せず、当時モスクワに滞在していたのでマスローが肉体的に不在だっただけでなく、ドイツ中央委員会のメンバーでもなかった。この弁論は、公開書簡が法廷にマスローの将来の地位と政策を疑わしいと思い込ませた事実と結合して、4年という比較的軽い判決をもたらした。すでに15ヶ月交流されていたので、彼は1年か2年で出獄することが期待された。
 マスローの弁論はドイツ共産党内の反モスクワ的傾向を著しく強めた。スターリンはマスローに反対する別の政治局決定で答え、ブルジョア法廷の前で彼が反ボリシェヴィキ的作法で振舞ったといって非難した。彼は党の内部事情を公然と討議し、1923年の政策を公的審査に任せ、その弱点を指摘したのだ。共産党の新聞だけでなく世界中の報道がドイツ共産党の危機を論じたて、正しくもこれをロシア党と結び付けている。しかしマスローは、ブルジョアの目から隠しておくべきコミンテルン問題を覆っている敷物を持ち上げ、共謀の秘密を暴露したことによって、党にたいする最大の罪を犯したのだった。
 法廷が終了に近づくと、私はモスクワに呼び出された。私は9月の終わりに到着したが、私がドイツに戻ることを禁じる、という幹部会決定を知らされただけだった。私はコミンテルン事務局でのより高い任務を推奨された。ピアトニツキーは私のパスポートを取り上げ、私はホテル・ルクスに軟禁された。私は事実上国家の囚人としてそこに10ヵ月留まった。私のあらゆる通信がコミンテルンのチャンネルを通じ、そこでGPUに検閲され、こうして私はドイツ党とのあらゆる接触を断ち切られた。ドイツ党内の議論は、マスローが獄中に、私が監視下に置かれるなか、われわれ不在の下で操作された。
 ベルリンの刑務所で、マスローはモスクワホテルにいる私ほどの制約はなかった。彼の通信も検閲されたが私ほどではなく、彼の場合は弁護士や何人かの友人たちと定期的に会うことが許されており、彼らを通じて党員との接触を保ち続けた。私はロシア党ヒエラルヒーの増大する敵意に取り囲まれ、モラル的にも組織的にもシステマチックに孤立させられた。
 ドイツ共産党問題にたいするスターリン主義者のこの最初の介入は、インターナショナル内部のあらゆる党、あらゆるレベルで、後には解放後の諸国でやがてなされる多くの介入の類型をなしていた。スターリンは代理人から直接彼に報告される情報に自らの介入を依拠しており、依拠し続けている。報告は集団と指導者個人の両面において詳細だった。彼らの背景、過去の誤り、その弱点、傷つきやすさ、虚栄心。それぞれのグループがもっとも望んでいるものを約束され、もっとも恐れていることを脅され、こうして集団は相争う小グループへと分断され、それぞれがスターリンの好意を得ようとした。まだ政治局と結びついていない諸個人には値が付けられて買収された。
 この過程にスターリン主義者の奇妙な印を刻んでいるのは、かつての敵対者たちが次々と行う過去の過ちの政治的告白が、自らの失敗を認めているのに書記長は間違っていなかったと認めていることである。こうした党の失敗の人格化は最高指導者の権威を高め、彼の究極の英知は無能で不忠な同志たちによって妨げられた時にだけ失敗する。自らの内的論理によって、この脅迫システムは、永続的に増大し続けるテロへと帰結する以外にないのである。
 
 
第22章 一国社会主義
第14回党大会を準備する過程でスターリンがほとんどの支部でかちえた統制は、彼がスターリンの正当な後継者であると党が認めさせたことを意味したのではない。彼は、とうに新しい指導性、新しい政策をもたらすグループの広報官として自らを押し出した。このグループはルイコフ、モロトフ、カリーニン、ヴォロシーロフ、オルジョニキッゼなどの壮々たる古参ボリシェビキからなり、これと並んでキーロフ、ロミナッゼ、ズダノフなどの代表的な青年たちがいた。スターリンを除いてもっとグループで最も重要な人物がニコライ・ブハーリンだった。もしブハーリンを引き込まず、政策面で彼と妥協していなければ、スターリンは彼の周辺に右派を結集させることはできなかっただろう。右派にとってスターリンは傑出した組織者、新しい穏健政策を実行することのできる男なのだった。
ブハーリンの新ネップ
ブハーリンが一時的にせよスターリンと同盟を結んだのは、部分的には、初期のジノヴィエフ、カーメネフと同じ動機―トロツキーがロシアのボナパルトになるかもしれないという恐怖からだった。それ以上に彼は、ロシアプロレタリアートのために語るジノヴィエフとカーメネフの政策が農民との近郊を危うくすることを憂慮していた。レーニン「労農民主独裁」論の新版を提起することで、ブハーリンは農民経済への国家的介入を控える中庸の雰囲気をかもしだそうとしていた。1925年にはあらゆるロシア人指導者がそうだったように、ヨーロッパ革命によってロシア革命の行き詰まりの抜け出す道は阻止され、そのために新しい歴史的段階が設定されたのだとブハーリンは信じた。ロシア政策は新しい世界情勢に適応して再定義されるべきであり、考慮に入れなくてはならない主たる要素はロシア農民の敵意だった。新経済政策は戦時共産主義の拘束衣を破ったが、市場は自発的に機能してはいなかった。革命は工業と農村との連携を破壊し、新たな関係は容易に建設されなかった。「ロシアの広大な地域に・・・集団であろうと個人であろうと、一人の商人も存在していない。つい最近まで鉄道に沿ってのみ交易がなされてきた」。(1)-(ルイコフ、フリードリッヒ・ポロックの引用)
 国営商業と農民との関係がつくられ、ネップの時代まで維持されたところでは、工業製品と農業製品の価格差の増大が農村の陰鬱な反対ムードを強めた。一連の農民反乱は1924年グルジア蜂起で頂点に達し、これは1年前の失敗したハンブルグ蜂起というよりほとんど内戦に近いものだった。1925年の収穫が改善したにも関わらず、党と農民の緊張は増大した。農村には反乱が存在し、党の組織者や徴税官が数多く殺された。農村の敵意の程度を党に報告することを任務とした、いわゆる農村通信員は、しばしばい自らの突然の死によって間接的に状況を報告した。(2)―(「誓い」というスターリンをレーニン後継者として称える1946年のソビエト映画は、1924年に農村での任務にあたるスターリングラード労働者がクラークに暗殺されるシーンで始まる。)
 ロシアの労働者と農民の協力が死活的であるというレーニンの信念から出発し、ブハーリンはこれを極端にまで発展させ、農民経済こそがロシア経済成長の真の中心であるとした。彼の提案によれば、国家経済は重工業に限定され、これは戦争と内戦が終わった後に再建されなくてはならなかった。軽工業と商業は自由企業という条件の下で最大限の自由を与えられるであろう。こうして、農村で緊急に必要とされた消費財は急速に増産され、国家工業と農民との間の緊張は緩和するであろう。農民は、工業製品の供給が増えることで、彼らの農産物を脅迫なしに市場へ提供するだろう。「豊かになれ!」。ブハーリンは農民に語りかけた。(3)―(フランス農民にこう言ったギゾーは、マルクス「共産党宣言」序文で、ヨーロッパ反動を象徴する一人として攻撃された。不況の直後、1885年にビスマルクはギゾーと同じ考えを表明した。「ドイツに百万長者が何人もいればどんなにいいだろう!」
 ロシアはその豊かな大地によって、ひとたび近代的農法が導入されれば、住民の何倍もの人口を養うことができた。ブハーリンは農民階級の上位層の個人的創意によって、こうした近代化を促進することを望んだ。貧農と中農は協同組合によって援助されるだろうが、協同化が個人農場の発展と改良とを阻害することは許されない、と彼は強調した。労働者の生活水準は主に消費者組合組織を通じて改善されるだろうが、消費者組合は農民生産者組合と直接売買することができ、このようにして新ネップ企業家による投機的な価格つり上げを回避することができるだろう。
 ブハーリンの提起はロシア国内の多くの階層から好意的に受け止められた。内戦を生き延びてソビエト機構に統合された技術者、経済学者、専門家などの知識人たち、いわゆるスペッツィ(Spetsy, 専門家)は、国家経済を遠慮なく批判していた。1924年5月の第13回党大会では、ジノヴィエフはメンシェヴィズムの「インドの夏」に不平を鳴らした。学生や技術者の間にブルジョア的メンタリティの復興がある、と彼は言った。彼らの賃上げ要求のなかで、技術者は自らをバイソンと比べていた―ツァーリ政府ですらバイソンの生き残りに世話を焼いたではないか。数少ない動物でそうなら、数少ない技術者になぜそうしないのか? スペッツィという呼び方も彼らは侮蔑的だと感じ、ソビエト社会で労働者と同じ地位を要求した。このグループの広報官の一人、ウストリャロフ教授は、ブハーリンの新ネップは、重工業が国家所有だという事実によって国外の生産と区別されるだけで、健全な資本主義的生産への回帰であると歓迎した。
 
 
第23章 ドイツ党のスターリン主義化
 第14回党大会の後、ジノヴィエフはコミンテルン機構に建前上の権威を維持しているだけだった。インターナショナルの数え切れない諸問題の中から、スターリンはドイツを自らの特別区に選んだ。マヌイルスキーはテールマングループとドイツ党全体の内的生活に関する詳細な情報を蓄積していた。顧問団とともに彼は再度ベルリンに司令部を構え、卓越したロシア的テクニックによってドイツ党の荒っぽいやり方を純化し続けた。コミンテルンというオリンポス【ギリシャ神話で神々の住む山】からやってきた公平な仲裁者として、マヌイルスキーはさまざまな左派メンバーや右派、諸グループを操ることができ、全員に援助を約束し、ある者を他の者に対立させ、「反ボリシェビキ」の中から期限内に立場を変えたすべての反対派に大赦を与えた。党内民主主義の権利は、2つの条件を満たした時だけ、マヌイルスキーによって保証された。コミンテルンはドイツ共産党の政策を批判するだけでなく、テールマン指導に鋭い攻撃を加えることでこれを承認した。すなわち、1)ロシア問題に言及してはならず、ドイツの同志がロシア党の危機に「介入」しないこと。2)ソビエト外交政策を批判してはならず、とりわけ赤軍とドイツ国防軍との接触に触れてはならない。
 党内民主主義の名において、マヌイルスキーは党を膨大なグループに分断することを後押しした。分断された党はさらに簡単に操ることができた。ランクアンドファイルのメンバーたちはドイツ問題で実践の役に立たない十カ条を学ぶよう奨励された。地方支部はこの十カ条に関する報告を聞いて討論することを強いられた。連合〔Blocs〕―反対派グループが主要な問題について合意した、スターリンの政策に抵抗するいわば合同綱領―は許可されなかった。抵抗勢力のいかなる合同も許さないこの摩耗戦略によって、モスクワはまず反対派潮流を粉砕することを企み、次に完全にコントロールできるやり方で党を再建しようとした。この目的は、党機構を変貌させ、工場細胞を道具として用いることで達成された。
ウルブリヒト・ピーク体制
 ドイツ党が再編されるべき模範は、1925年3月と1926年2月にモスクワで開かれた2回の特別会議で決定された(1)。参加者にはパウル・メルケル、フランスのモーリス・トレーズ、イタリアのヴィオラ・ブリアッコ、そしてモスクワの工場代表たちが含まれていた。共産党組織の新たな形式が詳細に論じられた。まさにこれがもたらした産物は、たとえば、2、3千人の労働者35人の共産党細胞を保持することができると推計された【訳文不正確】。サンプル工場の報告が作成され、これがロシアの工場をまねようとした。レニングラードのプチロフ工場とクルップ細胞の間で通信が始められた。
 この2回の会議でドイツ側の中心人物だったのがワルター・ウルブリヒトだった。ウルブリヒトは、ゼッレという党名を使っていたが、細胞組織の経歴を持っていた。1923年にチューリンゲンで個性のない党組織者だった彼は、いわゆる中央派のメンバーだった。彼は左派組織をいかに効果的に分断するのかという観点から組織機構を学び、この活動に適した道具としてかなり早い段階からスターリンに抜擢された。彼はコミンテルンのGPU職員の元で活動し、容易に操れる細胞に組織をアトム化する技術を徐々に発達させた。2回のモスクワ会議までにはスペシャリストとなっていた(2)。「工業プロレタリアートが共産主義運動の基礎であるために、細胞はわが党組織の根本的基礎である」と彼は書いた(3)。「ピークシステム」もまたウルブリヒトシステムだった。この2人の男がGPUの指示の下で一緒に活動し、ドイツ党組織を粉砕してこれをスターリン主義のカードルに再結集させた。ドイツ共産党はこの粉砕と再結集を通じてのみボリシェビキ化することが可能となった。
 
(2)ドイツ共産主義者の大規模なグループの一つが内戦下のスペインに派遣されたが、ウルブリヒトがGPUドイツ師団を組織した。彼はアルバセテ〔スペインの地名〕に本部を構え、そこでドイツ人、スイス人、オーストリア人「トロツキスト」の審査を指導した。ウルブリヒトがドイツ人異端者の拷問責任者で、トロツキストは後にゲシュタポから被ったのと同じ苦痛を味あわされた。彼らは数日間、食事抜きで窓のない部屋に幽閉され、徹夜の取り調べを受け、物置のような房内に何時間も立たされ、鞭で打ちのめされた。女性も例外ではなかった。
 スペイン共和派が敗北した後、ほとんどのドイツ人共産主義者がフランスへ向かった。1940年にフランスが崩壊すると、独ソ不可侵条約の期間、モスクワは彼らの大半にドイツへ戻るよう命じた。ウルブリヒトは特権としてモスクワに戻るよう命じられた。ナチス敗北後、モスクワの自由ドイツ委員会の重要メンバーとしてウルブリヒトは真っ先にドイツに送り込まれた。彼は今や社会主義統一党のナンバー2である。
 
 共産党は内戦期よりも組織的には増大していた。メンバーのほぼ95%が労働者だった。ドイツの左翼知識人(とりわけユダヤ系知識人はカイゼルの下で公務員から排除されていた)は一般的には民主党か社会民主党を好み、これらの党は彼らに統治機構内部の地位に接近する手段を提供した。ランクアンドファイルの共産主義者は、死活的な問題を暴力的に明確化する過程、彼らの中にあらゆる官僚機構への苦い不信を残した過程によって、社会民主党の強い伝統や組織から切断されていた。官僚主義にたいするこの軽蔑は、ドイツの共産主義者のなかで著しく発展し、一般的にはドイツ労働者の中にもある程度広がっていたが、ナチスは自らが対等する際に反Bonzen―反「有力者」キャンペーンにおいてこれ〔労働者の官僚への軽蔑〕を利用した。
 当時、共産主義者は、自らの「生まれながらの民主的権利」にたいして大変敏感だった。その一つが地区全体集会で、そこではあらゆる政治的・組織的諸問題が、党内での地位や立場に関係なく全ての発言が等しい重みを持つ基盤の上で論じられ、決定された。この地区組織は緊密な団結体で、共通の背景を基盤とし、隣同士で生活し、党の専従活動家の外側で毎日連絡をとりあっていた。これを構成する数百人の共産主義者が長年にわたってお互いのことを知っており、内戦の危険や古い社会民主党的あるいは労働組合組織の政治経験を共有していた。これら組織の職員に給与は支払われず、これら活動家が自ら職務に適切であることを証明する選抜過程を経て選ばれた。地区の指導部だけでなく、地区のランクアンドファイルも民主的組織の基本要素だった。彼らは、ドイツ労働運動の騒然とした過去10年で幸も不幸も共にした人々の胴体なのだった。彼らは、この政治経験と政治知識の実質的な平等の基盤の上に、自由で自発的な同意に依拠した緊密な団結を形成した。これらの人々の胴体部分は、彼らの敵対的な環境との闘争のなかで、彼らの間でかつて生活したことがある者なら決して忘れることのできない最良の人間的平等を発展させた。すなわち、性格の独立と組織の利益にたいする自己犠牲、組織的団結と個人的全体性、困難な課題と向き合い、責任を引き受けるエネルギー。
 強力なグループのなかで強く一体となった諸個人からなるこのグループは、ドイツ政治の党派的抽象性の難しい遺産と格闘していた。ちょうどこの時期、これらの融合した諸人格、分化した集団は、そのハンディキャップを乗り越えてより適切なドイツ政策を発展させ始めたところだった。彼らは民主的な党機構のために闘争したが、この闘争によって中央委員会はさまざまな地方組織の執行部以外の何ものでもなくなった。この新しく生まれた概念によれば、地方組織が党の政策を形成し、中央委員会はこれを遂行する。その反対ではない。ドイツを訪れたロシアの労働者反対派は、彼らがロシアで組織したいと望んでいた党の実例を見てドイツ党組織に魅了された。スターリンは同じくらい強力に反応したが、それは政策決定過程が組織の基礎においてなされるこういうタイプの組織が、スターリン主義党のアンチテーゼだからだった。自由に選ばれた党大会の代表を通じて表明された、地方組織の自治を強化する傾向の増大は破壊された。スターリンの代理人たちは、陰謀的な手段によってトップダウンで組織し、容易に操れる単位まで地区党の実体を削減した。
 これら地区党組織では、保留された問題についての報告と少数意見の報告は、全国を通じて反スターリン主義左翼反対派が巨大な多数派を占めたであろう。全メンバーの1923年の鮮明な記憶とともに、ロシア国家機構への不信感は非常に大きかった。これらの革命的労働者は、プロシア軍国主義、社会民主党指導部、ワイマール警察と同様の反感でもってロシア国家機構を阻害物と見なしてひどく嫌っていた。スターリンとマヌイルスキーが、クレムリンの政策に長期に反対する肥沃な土壌を党員総会の中に認識したことは正しい。
 これら地区党総会に対してモスクワ機構は公然と宣戦布告した。「工場内の党活動に集中せよ」というスローガンの下、地区集会に連なる党の古い地層、地域グループという枠組みの都市グループと工場細胞は精算された。システム・ピークが導入された。一個の工場細胞よりも大きな党の単位は公式に禁じられ、大きな工場細胞ですら10から15人のより小さな単位へと分割された。党はアトム化された。戦闘的活動家のあらゆる団結したグループが解体された。大会代議員は3回にわたって選抜された。初めに小さな細胞グループが代表を選ぶ。これらの代議員が地区党大会の代議員を選ぶ。この地区大会だけが最終的な全国大会代議員を選出する権利を持つ。
 その他の生来の民主的権利が、給与付きあるいは給与なしの党職員選挙だった。ドイツ労働運動の神聖かつ精力的に擁護された伝統は、労働者組織の中でランクアンドファイルの推薦、討論、投票抜きに誰も地位を得ることはできない、というものだった。これからは、給与付きの党職員は、モスクワ統制官の優先的な同意において中央委員会が推薦した。国家および地方議会の議員候補者は今までは党員によって推薦されたが、これも同じくモスクワ機構の同意の下で中央委員会が「提案」し、党大会の代議員がこれを承認した。
 ドイツ国内にはさまざまなソビエト機関から給与をもらうようになった数百人のドイツ人党員がいた。彼らにとってこの仕事は安息の地であり、多くのドイツ人共産主義者が熱心に求職した。ドイツの機構に比べると給与がかなり高く、労働時間は短く、その他にも特権があった。例えばベルリンのソビエト貿易公使館勤務だと、オートバイ、皮のジャケット、その他の贅沢品が格安で買えたし、その家族も安い値段でロシアでの休日を過ごしたりロシアのサナトリウムに滞在することができた。こうした物質的特典には特権と社会的地位が伴った。多くの革命家が、その共産主義活動によってワイマール共和国での経歴を閉ざされ、こんな犠牲は「相対的安定期」の今となっては役に立たないと考え、ロシア国家への奉仕のなかに補償を見いだした。これらの革命家は自らの生活の物質的精神的条件を完全に変えた。
 当時、ドイツの党員は12万5千人から13万5千人の間だった―ドイツの標準では弱い組織だった(4)。しかし党の機構は強力で、以下のような重要な要素からなっていた。
中央委員会、その書記、編集者、技術的雇用者・・・850
新聞と印刷工場、広告スタッフを含む・・・1800
書店、これに協力する宣伝扇動グループ・・・200
労働組合の被雇用者(主にシュツットガルト、ベルリン、ハレ、チューリンゲン、チェムニッツ)・・・200
疾病手当協会・・・150
国際労働者扶助会、これと提携する新聞・・・50
ソビエト機関によるドイツ人雇用者(ソビエト大使館、ベルリン・ライプチヒ・ハンブルグの貿易公使館、オストバンク、さまざまな独ソ法人)・・・1000
合計・・・4300
 これらすべての被雇用者がモスクワ機構の継続的な推薦に直接依存するようになった。党の方針に反対する一言や、党の方針を十分な熱意で擁護できないならば、即座に解雇される十分な理由となり、彼らはそれを知っていた。彼らは「党活動」の不在を覆う自由の葉を与えられ、地区工場細胞の「責任ある党活動家」に任命された。
 このfool-proof〔機械設計の思想で、愚か者が使っても耐えられるの意〕な操作は、ソビエト雇用者は現場で労働者と日々接することで官僚主義化、ブルジョア化することから防衛されなくてはならない、というもったいぶったお世辞たっぷりの議論によって、ランクアンドファイルにも容易に分かるようになった。
 さらに、目に見えない秘密の代理人たちが、少なくとも同じぐらいの人数いたことを推定しなければならない。なぜなら、ほぼ12分の1の党員がロシアから直接給与をもらっていたからである。これが党内でもっとも活動的な分子で、彼らにはいかなる党活動でも命じることができ、彼らはどんなにつまらない工場細胞集会でも参加を断ることはできなかった。官僚はどこでも政治的機構の市中である。ドイツ労働者内部のロシア・カードルの奇妙な特徴は、秘密の連携、秘密職員による軍事的統制、ロシアの中心部に直接所属していたことである。スターリン主義者のこのネットワークはあまりに濃密で、ドイツ共産党内のドイツ労働者の伝統をついには破壊し、あらゆる反スターリン主義の力を窒息させ、潜在的な反スターリン主義を排除した。
 工場細胞システムは党と広範なプロレタリア大衆との接触を改善しなかったが、その主な理由はこれが党に押しつけられたからである。この時期、大工場にはほとんど共産主義労働者がいなかった。その多くがブラックリストに載り、相対的な経済発展の時期も大工場で仕事を得るのは困難だった。仕事を継続することができた人々でも共産主義者であることが判明すれば解雇された。だんだんと、典型的な共産主義労働者は地方の工業へと押しやられ、ドイツ経済の主流から外された。「10人の床屋より10人の大工場労働者の方が重要である」というウルブリヒトの公式見解は真実だったが、情勢には不適切だった。ドイツの工場は6倍、7倍、8倍もの共産主義者をパージした。この党は工業地域でもっとも強かったが、これらの地域でも、数百人を雇っている大工場にはほんの一握りの共産主義者がいるだけだった。
 残った者たちは新しい工場細胞の中に意気消沈した雰囲気を感じた。ベルリン、ハンブルグ、とりわけルール・ラインラントの大工業中心地では、居住地域が工場地域からはるか離れた場所に移された。古い地域組織の親密さは破壊され、同じものは2度と現れなかった。彼らが政治的に結合するために、「責任ある党活動家」はいろんな郊外列車やバス路線の時刻表、何時にシフトが変わるのかを慎重に計算した―弱点はこうした環境によってもたらされた。
 同時期の左翼共産主義者による細胞会議の報告はこの状態を正確に述べている。
 
「諸君は標準的な工場細胞会議を思い浮かべなければいけない。そこにはおそらく7人か8人の本物の労働者が出席しており、3人か4人の党職員が参加している。ある者が反対派に抗して乱暴な演説をぶつ。たいてい反対派のスポークスマンは参加していないが、それは細胞委員会が彼を会議に招集するのを忘れたか、あるいは彼が勧誘をサボタージュしたからである・・・討議の時間、党機構の職員は中央委員会に賛成投票しない者に反ボリシェビキ、共産主義の敵という烙印を押す。おそらく、ある労働者は全部に賛成はしないと言う。おそらく彼は、Bonzenは口論をやめて一緒にやるべきだと提起する。哀れな労働者を啓発し、ボリシェビキ化が完成の域に達していないことを誇示するために、すべてが彼にのしかかる。」(5)
 
このシステムの強制に反対するたたかいは、特にベルリン組織で精力的に行われた。ベルリン地区大会は中央委員会が推薦する書記たちの全提起を何度も否決した。中央委員会が人工的に構成された代議員大会でモスクワのために多数派の得票を得ることができた時も、徐々にであって、直後には反対派が再びノイケルンやハレッシェ、トールなどの重要地区で統制を獲得し、そこでは党員集会が反乱状態のなかで解散した。「再組織することなしには、われわれはベルリンの共産主義者を決して獲得することはできないだろう」(6)。1927年第11回党大会の場で、中央委員会の報告を行ったフィリップ・デンゲル(7)は宣言した。
 
「長い間われわれは、カッツやコルシュ、ルート・フィッシャーやショーレムと、党内の多くの労働者が接触しないよう、彼らを孤立化させるために活動の4分の3あるいは5分の4を集中せざるを得なかった。最悪の仕事であった」(8)。
 
(7)フィリップ・デンゲルは、かつてコロン支部の書記であり、1925年8月の公開書簡事件の後になってスターリンが獲得した。彼は1933年までテールマンのグループで活動していた。ナチスが勝利して後、彼はロシアに行った。そこで彼は裁判を生き延びた。戦時中、彼は何度も在モスクワ共産主義難民として言及された。1943年もしくは1944年に彼は公文書から姿を消し、それ以来言及されることはなくなった。彼は戦後ドイツに送り返された共産主義者の中に含まれていない。
 
 この移行期の間中、ドイツの共産主義労働者はスターリン路線に反逆した。再組織された細胞システムと党に組み込まれた秘密代理人の助けによってさえ、反対派を制圧することは容易ではなかった。1926-1927年の間、党は包囲された状態だった。反対派が次第に窒息させられていった段階は以下のようなものだった。
1、反対派の声明は共産党の印刷物には掲載されず、特にロシア危機に言及したものは厳禁だった。例えば、1926年2月に執行委員会幹部会に宛てたベルリン・ウェディング地区の代議員フリッツ・エンゲルの声明はベルリンの左翼共産主義者とレニングラード反対派の連帯を表明したが、「プラウダ」にも「赤旗」にも決して印刷されることはなかった。
2、少しの時間を置いて、少数派の報告書がもはや許されなくなった。第11回党大会では、配布されていた反対派の文書は没収された。「このスキャンダラス、醜悪、不実の恥ずべき文書は、党中央の特別の要請に基づいて検閲する」とウィルヘルム・ピークは宣言した。
3、アトム化された細胞会議ですら役に立たなくなった時、いくつかの地域では長い間これが実状だったが、細胞メンバーは集会の権限を剥奪された。細胞会議の場所で「責任ある党職員」の会議が行われた。これは、党の職員が集まって彼らの雇用者のために賛成投票するものだった。
4、疑わしい同志の私信が盗まれ、ドイツ組織内で政治的脅迫のために用いられるかモスクワに送付された。
5、秘密機構が党内討議に介入した。N機関職員〔?N-men〕が反対派の会議を襲撃し、会議場所を武装グループで包囲してドアを封鎖し、反対派文書や暴露書簡を探して身体捜査を行った。
6、同じくN機関〔N-service〕が私邸を襲撃し、定期的な家宅捜査を行った。同志たちは通常の党組織ではなく秘密機関の職員によって司令部に連行され、そこで尋問を受けた。
7、秘密機関は、特定個人を悪の権化として描き出し、中傷のための特別宣伝を組織した。モスクワが捏造した情報が党組織にもその他にも広められた。
8、さまざまな党内の懲戒処分があった。異端者は1年間、党内で役職につくこと、党員会議に参加することを禁じられた。ドイツ的環境でモスクワが考案した奇妙な発明だが、政治テーマについて話すこと書くことも禁じられ、一般の場でも党の新聞でもいかなるトピックについても書いてはならなかった。彼らはモスクワ、ロシアの僻地、アジアやラテン・アメリカ諸国、とりわけ中国へと追放された。こうした流刑の期間中、彼らは例えばいかなるドイツ語文献も読むことを禁じられた。
9、選ばれた反対派メンバー、反対派グループ、地方支部まるごとが「反革命」として追放された。例えば、ルールの小さな工場街、IckernやHuckeswagenがそうだった。ミュンツェン-グラドバッハは中央委員会に多数派を与えない大会を6つの町で開催した後、まるごと除名された。
 党員は除名された人間とのいかなる関係も許可されなかった。彼と話すことも街頭で挨拶されて返事することも禁止された。こうして、工場や職安で見かけた同志たちと個人的な接触を続けたというだけの政治的罪によって、数千人のランクアンドファイルの党員たちが除名された。「接触による除名」は最初は党の高位のグループに適用された。コルシュがカッツと接触したために除名され、ルート・フィッシャーはコルシュと接触したので除名された。ジノヴィエフとトロツキーはフィッシャーと何の接触も持っていないと声明した。いくつかのケースでは、もし彼が秘密機関のメンバーだとしたら、【読解不可】・・・スプリングスチューベという名前のハレの若い同志は、変名で左翼共産主義の雑誌に投稿した疑いがあったために除名された。ドレスデンでは、右派のメンバーだったエリック・メルケルが社民党員と「人民の家」で会話しているところを目撃されたために除名された。ミュンツェン-グラドバッハでは、赤色宣戦兵士同盟の3名が「非党員」のバイク―つまりミュンツェン-グラドバッハ支部から除名されたメンバーの資産―で同盟の集会に乗り付けたために除名された(9)。
 
(9)「党の発展において中心的問題は党の分裂という問題にあります(と後にラデックは書いた)。物事を政治的に考え、憎しみによって自らの認識を曇らさない者なら誰でも、ルート・フィッシャー、マスロー、ウルバーンズ、ショーレムが共産主義労働者の層全体を代表していることを知っています。戦後最初の1年間、この階層は革命的な短気を体現していました。われわれはこれとたたかわねばなりませんでしたが、それは望みのない少数派が権力を奪取することはできないことを共産主義労働者に明確にさせるためでした。しかしわれわれはこの大衆から自らを分断することを望んではいません。彼らがわが階級の希望を体現しているからです・・・ライプチヒでの党大会で中央委員会にルート・フィッシャーを据えるべきだと、私自身のイニシアチブで主張したのはそういう理由からでした。後にこの提案は却下されました。私は中央委員会の左派の代表たちが、子供じみた政治家たち、独立社会民主党と共産党の違いも理解しない同志たちの平衡をとることを望んでいました・・・」
 「この夏も暮れる頃、ブランドラー、タールハイマー、ピーク、グラルスキその他の中央委員メンバーがジノヴィエフ、ブハーリン、私宛に、ルート・フィッシャーとマスローの排除を要求する書簡を送ってきた時、ブランドラーは私への私信で継ぎ接ぎはもはや役に立たないと宣言し、私は彼にそんな愚行にはついていけないと答えました。彼は撤回しました。しかし左派との協力関係はありませんでした・・・私は、私に近い立場の人間としてブランドラーを高く評価していますが、彼を引き留めようとしたのは友情からではなく、左派の同志たちだけで党を指導し、広範な大衆との接点を維持することはできないと確信していたからです。左派労働者がいない共産党は、独立社会民主党になる危険にさらされます。ブランドラー、タールハイマー、ヴァルチャー、その他数千人のオールド・スパルタキストがいない共産党は独立共産党(KAPD)になる危険に取り込まれます・・・」
 「カールとローザの逝去記念日に私はモスクワ青年同盟の会議で話しましたが、この場であなたも話す予定でした。私は演説の準備でローザの古い論文を要約しましたが、われわれドイツの左翼急進派は目覚めるのが早すぎたのではなく遅すぎたし、危険と戦うのが鋭すぎたのではなくて弱すぎた、というのが私の深い確信です」。
 これはクララ・ツェトキンがラデックを攻撃した後、ドイツ・ブロックの代表として、1926年12月のコミンテルン執行幹部会でラデックが彼女に宛てた手紙の一部である。これはトロツキストの月刊誌「新しいインターナショナル」(ニューヨーク)で1934年12月に初めて公刊された。
党のヒエラルヒーとGPUの統制
 1926年、最初のレーニン学校がモスクワに創立された。学校の指導は表向きはコミンテルンだったが、実質的には赤軍の反スパイ機関の手中にあった。市の郊外にスパイ技術を教える秘密の別館があった。ここでスパイは「党の素人芸」から、国家が要求した次元、すなわち国内官庁のすべての関係の背景となる通常の行動規範の次元に引き上げられた。この学校に配属されることは特別の報酬であり、党内で忠実な年月を過ごした後、試験に通過した後に初めて保証された。生徒は2年間のコースを学び、卒業生は秘密部門のエリートで、もっとも重要な地域でもっとも責任ある課題を与えられた。彼らは「Legalshchiki」すなわち法の厳守が規定された地位にある職員たちを軽蔑していた。
 こうして、民主化と政情かの名の下に、ドイツ共産党は言葉のもっとも単純な意味でロシアかされた。党のあらゆる単位が完全にモスクワに従属し、クレムリンの指令を熱心に遂行した。秘密機関に加入した全てのドイツ人共産主義者がモスクワの規律の下にあった。召還された時はモスクワの司令部に赴き、自らの上司に報告しなくてはならない。モスクワで彼は孤独に党や国家司法と向き合うために、こうした異動は嫌われ、恐れられた。しかし召還を拒否すれば「明確な規律の欠如」であり、小さなハエにとっては給与と環境を失うことに直結した。「大物」はもっと個人的な危険にさらされた。いくつかの事例では、モスクワ行きを拒否した秘密機関職員は力づくで連行され、彼らの友人や家族の問い合わせには2度と返事が来なかった。
 2年間のこの正常化は党のカードルを完全に入れ替えるのに十分だった。内戦期の共産主義的で戦闘的な共産主義者がいた場所に、新しい型の国家共産主義者―スターリン主義者、モスクワの代理人が台頭した。新しいカードルは自らが国際労働者党ではなく、ロシア国家党を代表していると感じていた。彼らは国外における秘密機関職員だった。合法的な党機構、合法的な党組織は空っぽの外皮、廃墟を隠す見せかけとなった。党の中核は今や秘密機関職員の防波堤であり、独立する傾向の復活させるあらゆる試みを粉砕するため、あまりに固く結集した。
 このネットワークは1923年危機の時代に発展した(10)。クレムリンの計算からドイツでの新たな蜂起が後景化すると、この秘密機構はあらゆるたぐいのスパイ活動に集中した。「共産主義革命の廃墟の中から、われわれはドイツ国内に、あらゆる他の国から羨望された、ロシアのためのすばらしい諜報機関を建設した」とクリヴィツキーは書いた。
「党の諜報機関の頭として、われわれはハンブルクの出版業者の息子、ハンス・キッペンベルガーを指名した。彼は疲れを知らず働き、軍と警察のranks、政府機構、すべての政治党派と敵対的な戦闘組織の中に入念なスパイ網を作り上げた・・・1927年国会議員に選出され、彼は軍事委員会のメンバーとなり・・・ソビエト軍事諜報部に多年にわたって貴重な情報を提供した・・・1933年の秋に彼はロシアへ逃亡した。1936年、彼はナチのスパイとして逮捕された・・・
「国防軍諜報部のブレドウ将軍を知らないのか」とOGPUの尋問官は尋ねた。「もちろん知っている」とキッペンベルガーは答えた・・・(ブレドウ将軍はたびたび国会委員会に姿を見せていた)」(11)。
 キッペンベルガーはロシアの指令でブレドウ将軍と接触をもっていた。彼の仕事の一部はドイツ軍士官の本音を探ることにあった。しかし、6ヶ月の尋問の後、彼はドイツ軍諜報部の任務にもついていたと自白し、処刑された。
 キッペンベルガーの自白がどこまで真実かは誰にもわからないが、疑いもなく多くのエージェントが双方のために働いていた。西側に反対するドイツ軍とロシア軍の潜在的な協力に関する国家ボリシェビキの終わりのない議論と軍事スパイとを明確に識別することは難しい。こうした環境において、誰が誰で、こうした2重エージェントがどちらの側に最終的には忠実だったかを知ることも同じぐらい困難である。
 党の軍事機関であるM機構は、もはや好まれなかった。軍事顧問はモスクワに呼び戻された。これ以上武器を購入する資金はなかった。多くの古い活動家はこの無視に困惑し、軍事組織に保証されていた支持と資金の減少をたえず嘆いた。これらの不満分子は何人かのロシア人顧問によって再結集され、マイナーなスパイ活動を割り振られた。彼らの不満は党に向けられ、これをさらに分断するために用いられた。M機構の骨格は保持され、軍事の新しい手法―砲術、ラジオ、航空、科学戦の専門家からなっていた。この「参謀本部」は秘密司令部を維持し続け、そこには軍事地図、軍事問題の図書、その他適切な素材が収集された。ロシア人とドイツ人の指導の下、いくつかの小規模な調査団がドイツの軍事科学、まれには公刊されている訓練パンフレット、軍事宣伝小説などを研究した。小規模の軍事部隊はなおも軍事演習を組織したが、大規模な演習は中断された。
 この時期、ベルリンのソビエト情報機関は膨大で多様だった。コミンテルンは独自の情報機構を持っており、大使館は別のものを、貿易公使館もまた自らの機構をもっていた。ベルリンの「プラウダ」および「イズベスチア」通信員は、彼らが公表される記事に加えてドイツ情勢の信頼できる報告をあげた時だけ、ロシア人の上司にたいする好意的な態度を宛てにすることができた。あらゆるドイツ人のサークル―自由主義的知識人、社会民主党、労組活動家、軍人から、例えばロシアの雑誌の調査材料などの偽装をこらして、情報がソビエトのエージェントにもたらされた。しばしば政治的に反共だったとしてもこの多様な書庫人はロシアの金のために情報や分析を売り渡すことを拒むことはできないと考えた。巨大で雑多な情報提供者のこのグループが秘密機関の中核を取り巻き、ドイツ社会のあらゆるレベルに浸透していた。
 この組織のとりわけ興味深い点は、「労働者通信員」のシステムがこの時期につくられたことである。党が一定の力を持っているそれぞれの工場には通信員として一人のメンバーが任命された。公式な彼の課題は共産党の新聞に手紙を出すことだった。実質的にこれは工場と工業の状況について信頼できる報告を提出することだった。これらの報告書は専門家に選り抜かれ、要約され、モスクワに提出された。
 この移行期、ドイツ党の秘密部門はGPUに指導され、スターリン書記長のためにドイツの共産主義者で地方の指導者の完全な名簿を準備した。各自の社会的政治的背景だけでなく、彼が党内論議でとった立場、とりわけスターリンにたいする態度について継続して詳細な報告をあげた。この名簿はモスクワのコミンテルン本部で、ロシア党の秘密名簿のモデルの上に積み上げられ、次の20年間に完成された。もちろんナチスによる大量破壊がドイツ人共産主義者のかなりの部分を破壊したが、生き延びて今では機構に受け入れられている者は、彼の記録がスターリンのロシアにたいする長年の従属を示しているから認められたのである。
 党の同質化において、諜報テログループ―N機関とT機関が決定的だった。反対派の性格と行動を考慮し、誰を除名すべきか決定し、残った者を影響されやすい形に再結集させたのが彼らである。1923年の日々、Tグループは自らの戦闘性を反革命組織に発揮する精力的な組織だった。Kれらのドイツ人パルチザンはロシアのテロ機構の2時的な付属物に変容させられた。黒国防軍にたいする激しい憎悪からグループに参加した実直な革命的労働者は、薄汚い道具となり、給与をもらう暗殺者となった。
 GPUは党のあらゆる重要な支部に彼らを配属した。まずなによりも党の政策作成の実体である中央委員会と政治局。市議会と国会。マルクス主義労働学校の教師。共産主義活動のあらゆる広大な専門部活動の指導的実体。続く数年の間、国際労働者扶助協会、党出版局、党の新聞の職員のうち、GPUの任務に加わり、彼らの通常の給与にいくらかマルクを付け足す人々の数が増大した。左派が中央委員会をとっていた時、ピークはこの会議の報告をGPUに提出していた。後にウルブリヒトがロシア秘密機関とドイツ党との主要な接点となった。
 目立たないが興味深いドイツ党腐敗の証拠は、ベルリンがヨーロッパのその他地域に浸透するロシア人エージェントの第2の司令部となったことである。ドイツ党はソビエト・エージェントが旅行するのに安全なアパート、護衛、速記者、その他の資材を提供した。GPUエージェントはたびたび一時的な補助者を雇ったが、これは中央委員会に推薦された中から選んだのであり、1933年にいたる10年の間に数千人のドイツ人共産主義者が外国機関に加入して、しばしば変名で、世界の四方に散らばったのである。Novitiate〔?〕は、新しい任務に感銘し、荒っぽい党のやり方に比べて洗練された「コミンテルン」のスパイ活動を強調された。一連の小規模な任命によって、候補者は適性と忠誠を試験された。多くは一時的な任務についただけだが、重要なグループは生涯にわたって契約した。
 次第に下から選ばれるのではなく上から選抜されることが多くなった表向きの党職員と並んで、平衡して見えないヒエラルヒー、あらゆる点でスターリン時代の前に選出された労働者代表の反対物である秘密のエリートが成長した。GPU「士官」のこの実体は、独自の生活を営み、自らが操っている党の団結とは別のところにいた。ランクアンドタイトル〔rank and title:rank and file をtitle(称号、肩書き)でもじっている〕、これに対応した給与と特権は、任務の価値をロシア国家に依存していた。手下や周辺分子たちは一時的あるいは恒常的な情報提供者、「友人」とサブ・エージェントと分断された。党内の人間の運命を決定するうえでこれらGPUの人々は決定的だったため、同志のランクは彼が委任された任命の種類によって測られるようになった。「彼はとても責任ある仕事を持っている」、つまりモスクワのエージェントから信頼できると考えられている、というのが初対面の人にたいする標準的な紹介となった。
 1945年のニューヨークで私は、これやあれやの過去のGPU任務のどちらが相対的に「重要」かという討論を聞いた。これらGPU機構の生き残りたちは、まるで古参兵のグループが戦場における兵士の武勇を語るように話し合っていた。この奇妙なメンタリティ、すべての人間を「信頼できるかどうか」で測る物差しは、私も建設に加わったドイツ共産党をロシア人の道具が破壊する運動を目撃した20年代半ばのベルリンに、私を連れ戻した。
 
 
第25章 トロツキーとジノヴィエフが連合(Bloc)を形成
 1925年12月の第15回党大会でスターリンは勝利したが、闘争の決着がついたわけではなかった。新しく選ばれた中央委員の中には、スターリンとその支持者の間に活動的で潜在的な反対派の指導者も含まれていた。ブハーリン、ルイコフ、トムスキーだけでなく、スターリンが不安定で単なる一時的同盟者と見なしていた人々―正しくも後の事件がこれを証明した―に、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ソコーリニコフがおり、彼らは未だに恐るべき敵であった。大会中もその後もトロツキーが未だ闘争の帰結を左右するキーパーソンだった。スターリンとジノヴィエフ―カーメネフの両陣営とも、彼のあらゆる動きを注視し、その方向を決定しようと試みた。
 スターリンは、ジノヴィエフとその支持者たちをさらに弱めることで、協議会で与えられた優位性をさらに拡大しようと策略した。1926年1月2日、新しい政治局員を選出する選挙において、ソコーリニコフが失脚し、カーメネフが候補の地位に格下げされた。2週間後、ソコーリニコフは財務人民委員の地位を失い、カーメネフは人民委員会議副議長という地位を解任された。ジノヴィエフはレニングラード・ソビエト議長の地位をコマロフに取って代わられ、カーメネフもモスクワ・ソビエト議長の地位をウクハノフに代えられた。コマロフとウクハノフは金属労働者で、スターリンはロシアの2大都市の市長が鉄鋼労働者だと自慢することができた。ロンドンやパリもこの事例に続くだろうと彼は言った!(1―インプレコール1926年,p.2803)
 この小さな演説はスターリンがこの時期に党内で果たした役割について示唆的である。それは、知識人と官僚に反対するプロレタリアートの指導者というものだった。当時彼は、指導者(leader)ですらない「指導者たち」(the leaders)という三人称で話した。彼は自らの欠点―知識と演説の才を欠くこと―を率直に認めた。この点で、彼は後に続く全体主義時代の大衆リーダー―下層階級の出身、慎ましい生活習慣を自慢し、しばしば知的素養の欠如すらも自慢した―の原型であった。スターリンは数ある労働者党員―直裁、簡潔、必要とあれば下品にも残忍にもなる―の中で責任ある一人だった。そしてこの反教養的な訴えは党内の中間層に広範な反響を見いだした。プロレタリアートはその社会内の階級的位置のために、ほとんど本能的に正しい政治的立場に到達することができる、という形でマルクス主義の教義を俗化することによって、スターリンは事実上レーニンがまさにこの点でマルクス主義を精錬したことを無効にした。労働者の自然発生的な反応を、自らの科学的分析によって政治的理論と政治的活動へと結晶化する党のエリートが必要である、とレーニンは強調した。1923年の反トロツキー闘争で始まったスターリンのプロレタリアートの本能にたいする直接の訴えは、引き続き行われ、新たな操作手段へと増幅し、1928-1929年の反クラーク闘争の時期に完全に開花した(2)。
 
(2)コミンテルン党の新しい指導者、例えばウィリアム・Z・フォスター、モーリス・トレーズ、エルンスト・テールマンも、伝統的な労働者の素朴な息子たちだった。彼らだけでなく、ヨーロッパにおけるスターリンの競争相手も同様で、ムッソリーニとヒトラーは、彼らのモデルのこうした態度を模倣せざるを得なかった。未加工の社会的原材料がもつ虚栄心にたいするこの訴えは、あらゆる現代の独裁制で行われている。もっとも明快な事例はアルゼンチンで、ここではペロンが自らのlos descamisados―シャツを着ていない者たち―を抜け目なく操作することを基礎として、アルゼンチン社会の中間層に対抗する独裁権力を打ち立てた。
 
 このプロレタリア的ポーズを実証するため、スターリンは特にレニングラード反対派、党内のプロレタリア的エリート層の中心地を粉砕することに留意した。第14回大会がまだ開会している間、新しい中央委員会が選出される前、スターリンが彼に党内多数派を確保することが公的に保証する前に、スターリンは彼のエージェントをレニングラードに派遣した。「同志モロトフ、キーロフ、ヴォロシロフ、カリーニン、アンドレイエフその他が、レニングラード党組織のメンバーにたいして、レニングラード代表がとった大会でとった態度の犯罪的・反ボリシェビキ的性格を説明するために、レニングラードに派遣された」とスターリンは書いた(3 ヨセフ・スターリン「CPSUの歴史」、p278)。強力なGPU派遣団を引き連れて、この全権大使は興奮して沸き立つ党員と会合した。レニングラード支部は、知らないうちに、彼らがボリシェビキだという「嘘の主張」によって、反ソビエト的で反ボリシェビキ的な代議員を選出したのだ、と彼らは説明した。「諸君らは諸君らの指導者に裏切られたのだ」とスターリンのメッセンジャーはレニングラード党に語った。許容される答えは、「そうです、同志、私は裏切られたことを告白します。私はジノヴィエフに投票することで自分が反ボリシェビキに投票したのだということを認識していませんでした」というものだった。この答えは恩恵をもたらすだけでなく、ただちに支部再編に抜擢されるという昇進の約束を意味していた。
 しかし反対派はレニングラードで闘い続けた。党の慣習によれば、ジノヴィエフ非難を含め大会のあらゆる決定は、レニングラード支部によって承認されなくてはならないが、スターリン主義者はこの承認が時間稼ぎの単なる口先だけのものかどうかを確かめることができなかった。これは微妙な作戦で、説得されたそれぞれの反対派は、いずれの場合もある程度疑わしく、残った者たちがさらなる要求に従順であり続けるため、屈服した反対派を慎重にレニングラード組織から隔離せねばならなかった。数週間後、スターリン派遣団は、新しいムチとしてセルゲイ・キーロフを残してモスクワに戻った。キーロフは党内テロの発展においてもっとも重要な人物となった。
 セルゲイ・M・キーロフは1904年以来の党員で、スターリンが党の中間層を彼の側に引きつけ始めた1922年、中央委員に選ばれた。彼はいかなる分派にもはっきりと関与することなく第14回大会代議員になった。スターリンは舞台裏で工作し、彼を多数派に獲得することができた。彼はすぐさま報酬を得ることになった。年次大会の後、彼はジノヴィエフの後任としてレニングラード支部書記長となった。外側から派遣され、中央委員会代表として彼は憎悪と軽蔑に取り囲まれながら支部再結集の課題に手をつけた。
 反対派は特に青年の間で強かった。
「大会に続いてただちに、ジノヴィエフは青年共産主義同盟レニングラード地方委員会の会議を招集した。これは、ジノヴィエフ、ザルツキー、バカーエフ、イェドキーモフ、クークリン、サファロフその他、レーニン主義党中央を憎悪する精神の二心ある者たち〔double-dealer〕が育てた組織だった。この会議で、〔青年同盟〕レニングラード地方委員会は青年共産主義同盟史上類例のない決議を採択した。第14回党大会の決議を遵守することを拒否したのである。」(4)(ヨセフ・スターリン「CPSUの歴史」、p278)
 初めは慎重に動いて、キーロフがスターリンの規則を移植した。ロシアの都市でもっとも西側志向の住民であるレニングラード労働者は、うまく反応しなかった。それぞれのテロの波は、反対派を地下に追いやり、頑強な抵抗を増大させただけだった。1934年12月にGPUが党員大量粛正の爆弾に点火しようとした時、GPUはキーロフ暗殺を手配し、30年代半ばの見せ物裁判を始動させ、この選択によってまず何よりもレニングラードの人々を脅迫した。スターリンの国会放火事件の現場としてレニングラードを選択したことは、20年代の反合法的な反対派と30年代におけるその陰謀的な継続との関係を説明している(5)。
 
(5)GPUの道具としてキーロフを暗殺した男はニコラエフといって、ジノヴィエフのレニングラード反対派をやめた人間だった。GPUは共謀者としてジノヴィエフ、カーメネフ、ザルツキー、イェドキーモフ、フェドロフ、サファロフ、クークリン、バカーエフ、シャロフ、ファイヴィオヴィッチ、バルディン、ゴルチェーニン、ブラク、ゲトリク、コスティナを逮捕した。読者はこのリストをスターリンの歴史539pのリストと比較すべきである(トロツキー「キーロフ暗殺」Pioneer Publisher, New York,1935年を参照)。
 これらすべてのジノヴィエフ主義者をスターリンは1926年に非難していたが、彼らは党に復帰して新しい反対派の中核を形成していた。1935年、彼らはキーロフ暗殺者と接触した容疑で裁判にかけられ、さまざまな刑期を言い渡された。1936年、同じグループが獄から連行され、同じ容疑で2回目の裁判にかけられた。今度は処刑された。
 GPUがキーロフ事件に関わっていたことは今では立証されている。ロシア秘密警察レニングラード部隊の隊長だったF・D・メドヴェドを頭とする12人のエージェントが、この件では職務怠慢で告訴されている。キーロフを挑発した主要な内部関係者の一人がGPU長官H・F・ヤゴダで、彼自身も1938年に死刑判決を受けた。
 
 14回大会に続く期間、スターリンはレニングラード反対派を権力ポストから外すことに専念した。他の反対派グループ指導者たちには言い寄った。例えば労働者反対派の代表アレクサンドラ・コロンタイはオルソ大使館に派遣され、こうして彼女を友人たちから隔離して彼女にこびへつらった。スターリンは特にトロツキーにたいして、過去の2年間の闘争が新しい連携の可能性を取り除いていないことを明確にした。トロツキーは新しい政治局のなかで地位を保持し、後には科学技術諮問委員会の委員長に任命された。これはジェスチャーだったが、空虚なものでもなかった。ここにはトロツキーとジノヴィエフとの連合の形成を妨害する意図が込められていた。
 数週間後、トロツキーはより好意的な扱いを受けた。彼はドイツへ行ってベルリンの専門医と協議することが許可された。
「モスクワの医師たちは・・・外国旅行をするよう私に何度も勧めた・・・問題は・・・政治局で取り上げられ・・・政治局は私に最終決定を任せた。この声明にはGPUが私の旅行を承認しがたいと示唆するメモの引用が添付されていた。
 ドイツ大使館との段取りは難なく完了し(ベルリン条約はこの期間に交渉されていた)、(1926年)春の半ば頃まで、私の妻と私はクズミエンコという名の外交官用パスポートを与えられた・・・われわれには装甲列車の前司令官だったシェルムクという私の秘書とGPU代表とが同伴した。」(6)―(トロツキー「わが生涯」pp.522-523)
 こうして、コロンタイ同様、スターリンはトロツキーを彼の支持者と接触させないよう異動すると同時に、妥協のジェスチャーを示して見せた。当時トロツキーはドイツにまだ拠点を持っていなかったので、ドイツ党内のいかなるグループにもトロツキーが影響を及ぼす実質的な危険はなかった。テールマン指導部は慎重で敵意を持っていた。ブランドラーと彼の支持者はトロツキー側につくにはあまりにも用心深かった。彼らはスターリンによって党指導部が再建されることを望んでいた。マスローは獄中にあり、私はモスクワにいて、とにかくドイツ左派は1923年のスコラ的な反トロツキー神話に包まれていた。
 スターリンの慎重な融和的アプローチはいくらか効果があった。トロツキーが言うには、彼の支持者の中にはジノヴィエフやカーメネフとの連合に反対する者が「大勢」いた。「わずかとはいえ、ジノヴィエフやカーメネフに反対してスターリンと同盟を結ぶことが可能だと考える者すらいた」。(7)―(同書、p521)
ブハーリン、ジノヴィエフとの会話
 私はこの時まだモスクワ居留を強いられていたが、にも関わらずスターリン書記局の全体主義的台頭に反対する最後の地上戦に参加することができた。ツヴェルスカヤ通りにあったホテル・ルクスは、国外から来たコミンテルン代議員のモスクワ居住地で、奇妙な場所だった。もともとは19世紀のロココ調に調度され装飾された商業用ホテルで、保存状態は良かったが、配管は無数の南京虫とネズミに制圧されていた。ここのドイツ人共産主義者はネズミ捕りがお気に入りの暇つぶしで、ドイツ的な発想で、忍耐強く攻撃すればネズミを絶滅できると考えていた。
 ルクスはモスクワ労働者の間では非常に評判が悪かった。コミンテルン代議員はロシア人民とは別の生活を送っていた。外国人は多くの権限や特権を持っていた。彼らの生活水準はロシアの党職員の標準よりはるかに高かった。ホテルはGPUの厳密な統制下にあった。ドアマンにいたるまで、何人かの外国客と同様GPUスタッフで、特別な許可なくしてこのGPUの非常線を通って建物に入ることのできるロシア人はいなかった。例えばクーシネン書記のヘイモなど、何人かのこれらGPU職員は知られていたが、ほとんどは疑惑があるだけで、この疑惑は部屋から部屋へと伝わって雰囲気を害した。私はルクスに住んでいるドイツ人家族の何組かを頻繁に尋ねた。彼らはその共産主義的活動によってドイツを離れるよう強いられていた。彼ら全員が、常時GPUの捜索があると私に話していた。彼らが働いていた工場、党細胞、ホテル、同志たちの間に、GPUのエージェントがいた。私がコミンテルンの高い地位にあったというだけの理由で、彼らは私がGPUの統制から逃れることはできないと警告した。私のあらゆる挙動が注意深く観察され、報告された。
 スターリンはいつも新しい申し出を抱えて恒常的に私に接触してきた。コミンテルン指導部がいかなる腐敗を強いられたか、その一例として、ここでその一つを引用しよう。私は、父が重病で私に会いたがっていると言って、ロシアからの出発許可を繰り返し要求し、これを強めた。出発を許可する代わりに、私の世話を必要としている幼い息子も含め家族全員を国家の負担でロシアに連れてきてもよいという申し出を受けた。私の父は、いかなる意味でもマルクス主義者ではなかったが、彼が生活するウィーンの穏やかな環境の代替としてロシアの大学の地位を得ることが可能だと言われた(8)。長い間スターリンと反対派の間で動揺していたパルミロ・エルコリ―トリアッティも同様の申し出を受け、これを受け入れた。たくさんいる彼の家族全員がロシアにやってきて、物資的に不自由なく生活できるよう手配された。彼らはトリアッティがスターリン主義者の方針を永久に支持する保証の人質としてそこにとどまった。
 1926年2月の初め、コミンテルン幹事会の直前に、スターリンは個人的なやりとりをするため中央委員会の建物に私を呼んだ。通訳として、1924年にロンドンを一緒に旅したペトロフスキーがついた。この時はスターリンは藪を叩いたりはしなかった。彼はドイツ国内の婦人組織についてくだらない質問を繰り返さなかった。冷酷かつ残忍に、ロシアおよびコミンテルン情勢を率直に語り、スターリンはいかなる反対派も許さずロシア党とインターナショナルを「再組織」する鉄の意志を示した。この2時間の個人的会話で、彼は私が詳述したような、彼に従属した人々に行ったたぐいの荒っぽい申し出をしなかった。彼はもし私がジノヴィエフと手を切れば、ドイツ国内で全面的に私を支持すると約束した。私はロシア政治局の同意の下、テールマンが私にたいする中傷攻撃をやめるよう指示する手紙を携えてドイツに戻るだろう。私はドイツ党の指導に再び参加する。トロツキーとジノヴィエフの連合が形成されるぐらいなら、スターリンはドイツの支持者をはぎとるために喜んで高い価格を支払おうとした。
 ブハーリンはスターリン執行委員会と提携していたにも関わらず、私との関係は良好だった。レーニン死後のすべての偉大なロシア人共産主義者たちの中でも、彼はもっとも人間的で愛すべき人物の一人だった。彼はクレムリンではなくてモスクワの2部屋のホテルに、傷病兵として後送された愛想の良い仲間と居住しており、同居人は決して党内の議論に加わらなかった。ブハーリンは大学や青年の会議ならモスクワのどこにでも行った。彼と話した時、彼は自分の見解に私を獲得しようとしたが、その意見はすでに目に見えてスターリンの構想と違っていた。彼は穏和な政策を欲していた。彼は反対派に対して、より一般的には農民に対して、極端に走ることを望んでいなかった。わが国はあまりにも貧困だ、と彼はある夜私に語った。わが農民は原始的な道具を用いて非効率的に働いている。われわれには西側的な意味での富農はいない。われわれのクラークはドイツやフランスの裕福な農民、アメリカの農夫たちと比較にならない。2頭の馬といくらか農業機械を持っていれば誰でもクラークと呼ばれる。この農民経済を近代的農業に変革するには長い年月がかかるあろう。いくらかのクラークが裕福になったところで党の独占は揺るがない。われわれは要点を押さえており、これを通じて彼らを統制することができる。集団化の強制はわれわれの体制の性格全体を変えるだろう。その結果は悲惨なものになるだろう。正しい党の農民政策は、国家が補助する協同組合のネットワークを通じてロシア農業を高い水準に引き上げることにある。
 好きなところに行くことがまだ可能だったコミンテルン執行委員会のメンバーとして、私は一定の配慮で取り扱われた。私にはpropusk―クレムリンに出入りする永続的許可が与えられ、私はモスクワ市内をかなり好き勝手にうろつくことができた。しかし14回大会の後は、いろんなロシア人指導者と私との会話は陰謀的な色合いを帯びるようになった。例えば私がジノヴィエフと討論するためクレムリンに行く時は、何らかの口実で正門を入ってからコミンテルン議長の通用門へ行き、そこでジノヴィエフ自身に入れてもらった。この利点は私が目撃されないということで、私がいたという目撃はあくまでも非公式なものだった。もし私が正門から入って守衛に登録されれば、ジノヴィエフは私の訪問について報告するよう求められただろう。
 このやり方で、私は14回大会が休会して数日後にジノヴィエフと会い、レニングラード反対派の敗北で生じた新しい情勢について、ボリシェビキ的レトリックに惑わされることなく初めて率直に討論した。挫けてはいなかったが、彼は多数派の規模を心配していた。地方支部の間に強力な支持を求めていたからだ。彼の想定では、そこに真の危険があった。コミンテルンの規律に抑制されることなく、彼は私に率直に話し、スターリンにたいする自分の見解を初めて私に伝えた。彼はスターリンをテルミドールの槍の穂先、反革命復興の指導者として特色付けた。スターリンは決定的な勝利を得るにはまだ遠い、と彼は言った。われわれは彼をうち負かすチャンスがある。しかし、もしわれわれが戦力を回復せず、潮流を逆転させなければ、これが資本主義またはボナパルティズムへと導く最初の一環になるだろう。最終的な結果はロシアとヨーロッパにおける白色テロであろう。
 この言葉は私を深く揺り動かした。過去数ヶ月、モスクワでドイツ党から隔離され、あまり自由に問題を論じようとはしなかったが、私は新しい情勢にたいして同じ感覚を感じていた。私はジノヴィエフの突然の態度変更に深く感動した。ボリシェビキ的規律についての討論、弁舌巧みな雄弁は全てどこかへ行ってしまった。実践的な申し出について一定の批判はあったが、私はボリシェビキ的規律の絶対性という神話に包まれて過去の年月を生きており、この数ヶ月に神話が雲散したことを理解した。独裁権力へと駆り立てるスターリンの固い決心によって彼のリアリズムに直面させられ、ジノヴィエフと私は陳腐な隠語の負担を減らして新しい闘いに備えることを強いられた。
 われわれの半公然的な会合で、ジノヴィエフは彼の信用できる秘書が特別に翻訳した政治局の機密報告を私に伝えただけでなく、これを長時間の会話で深めた。私はロシアの込み入った諸問題について、レーニン選集を読んだだけの状態よりも深く学んだ。レーニンが亡くなってすぐ、早くも1924年の初め頃、ジノヴィエフと彼の友人たちは、スターリンが容赦なく党を自らのグループの権力の道具に変えようとしているのではないかと自らに問い始めた。彼らは、スターリンの野心的言辞とか彼の腹黒い性格だけからこの変化を解釈したのではなかった。彼の権力の追求は、ロシアとヨーロッパの革命の全般的退潮の一つの特徴であり、これは最終的には大陸全体の政府と国家権力の反革命的形態へと導くであろう。すべての重要なポストを自らのグループが掌握するというスターリンの企みは、、10月革命にたいするファシスト的反動の一形態として分析された。党のカーメネフドルは望みがないほど腐敗しているわけではない、とジノヴィエフは強調した。主要な課題は彼らが再結集するしてスターリン一派と闘うよう激励することだった。この再結集はボナパルティスト的冒険をその根元から断ち切る推進力となるだろう。
 われわれがトロツキーとの連合について討議した時、ジノヴィエフは1923年の反トロツキー闘争を心底後悔しているとたびたび繰り返した。この深刻な過ちはスターリンが第1ラウンドで勝利することを可能とした。しかし、彼はトロツキーとの間に存在し続けている政治的相違について曖昧にすることは決してなかった。ジノヴィエフは、国家党の指導原理である「ボリシェビキの鉄の団結」への自らの信念を見直す過程にあった。党組織問題について討議する中で、われわれは権力の掌握前と後との共産主義者の課題を区別しなければならない、と彼は言った。国家権力との闘争で必要な陰謀的な方策を継続し、百万人の国家党で鉄の団結を維持することは、破滅的な腐敗を結果し、われわれの運動の社会的性格を変えてしまうだけである。われわれは革命的社会主義のあらゆる潮流が存続しうる十分な空間を持ち得る組織類型を見いださねばならない。トロツキーとわれわれの組織が過去に政治的に違っていても、また将来さらに相違が深まったとしても、それよりも大きな政治的相違はソビエトと党の合法性の枠組みの内部に並んで存続することができなければならない。もしわれわれが共産主義者の思想と活動のあらゆる側面を展開することができなければ、われわれは敗北する。
 ジノヴィエフは、異なる型のソビエト民主主義が合法化されねばならないと論じた。まずボリシェビキ党内の分派、次にメンシェビキと農民党がソビエト内部で認められること。しかしながら国家党と他の政党との関係というこの課題は、反対派の指導者たちの間で慎重に徹底議論されたことはなかった。ひとたびスターリンのグループが権力の独占から排除されれば、ソビエト民主主義を広く拡大することを望んでいる者たちに訴えかけただけで、党内の新体制は存続することができるだろう、と想定されていた。他方、反対派は別のソビエト党という要求を支持することを恐れていたが、というのもスターリンがここを反対派と対決する結集点にしていたからだった。全般的な政策とスターリン権力反対闘争で同意していた党内グループのかなりの部分が、組織問題についてこれほどの変革を受け入れようとは決してしなかった。ジノヴィエフのグループは労働者反対派と主要にこの点で異なっていた。いくつかの労働者諸党をすぐに合法化せよと要求するか、まず国家党の権力と闘い、その後にこの原理を適用するか、という違いである。トロツキーは、国家党の権力独占という信条から彼自身を分離するのに、亡命生活とヒトラーの権力掌握という長い年月を必要とし、彼自身がこの点を明確にする前に殺された。
 彼の事務所でのこうした率直な議論を経て、私はモスクワ滞在中にジノヴィエフをよく知るようになった。スターリン主義者の中傷宣伝があまりにも彼の名前を覆い尽くしているで、彼の本当の人柄は国外ではほとんど知られていない。南ウクライナで小ブルジョアのユダヤ人家庭に生まれ、グレゴリー・Y・ジノヴィエフは1903年の結成当初からロシア社会民主党のボリシェビキ派メンバーだった。彼は運動の産物だった。反ツァーリズムの日々の地下活動の中で、彼は教育を受け、人格が形成された。1905年革命に続く反動の期間、彼はレーニンと亡命を共にし、彼の国外活動の全精力をロシア党の地下活動のために捧げた。彼は当初からレーニンの右腕だった。レーニンの考えに反対する毒のある論争は、2人のうちの弱い方、ジノヴィエフに向けられた。あらゆる批判の盾になるというこの役割は、コミンテルン議長となった後も彼についてまわった。ここで彼はあらゆる共産党の弱点だけでなく、すべての破産した革命にたいする責任を引き受けたが、最後には書記長が望んだ仕事を達成できなかった責任まで負わされた。ジノヴィエフはコミンテルンを指導する十分な才能がないという、たびたび繰り返された非難は本当である。しかし、ひとたびヨーロッパ革命が沈滞したならば、モスクワが占有するコミンテルンは時代錯誤であり、これによっていかなる人物もいかなるグループも世界革命を「組織」できはしない、という意味で本当なのである。1923年の後、コミンテルン司令部はヨーロッパの首都に移転すべきだった。コミンテルンの活動とコミンテルンの政策はロシア党から分離しなくてはならなかった。
 ジノヴィエフの冷淡な態度、個人攻撃の年月に身につけた仮面の下には、とても情緒的な人格が隠されていた。19世紀の社会主義護民官のように、ジノヴィエフはひとたび大衆が動き出した時の見えない力について救世主的な信念を持っていた。この点では、彼はレーニンやトロツキー、ブハーリンその他、国際主義の新しい信念を叩き込まれたロシア人共産主義者の第一世代全体と相並んでいた。青年として、次の世代として、私は同じように大衆は必ず勝利するという不屈の信念を共有していなかった。ジノヴィエフは自らに幻想を言い聞かせているように私には思えた。この救世主信仰はジノヴィエフの弱さであり強さでもあった。好意的な反応に夢中になると、彼はすばらしい革命的演説家であり、勇敢となった。沈黙にぶつかると、彼は「パニック状態」となった。1917年にソビエト内の全政党との連合を望んだ罪で彼はいちばんののしられたが、これも同じ性格構造に由来する。彼は他の労働者党から党が切断され、ロシアの大衆から孤立することを恐れたのである。
 すでに述べた14回大会の直後の会合で、ジノヴィエフはスターリンとの闘争のさまざまな可能性を一緒に検討するなかで、ほとんどびくびくしながらトロツキーとの連合を切り出した。これは国家権力のための闘争である、と彼は言った。われわれは、彼のすばらしい頭脳と広範な支持がなくては国家権力をかちとることができないからだけでなく、われわれが国家権力をとった後にロシアとインターナショナルと社会主義の路線に引き戻す強力な腕を要する、という理由からも、彼が必要なのだ。それ以上に、彼以外には誰も軍隊を組織できない。スターリンは綱領ではなく力によってわれわれに反対しているが、彼は綱領ではなくより強力な力でのみ相対することができる。ラシェヴィッチはわれわれと共にあり、トロツキーとわれわれが合同すれば、われわれは勝利するだろう。
 われわれが求めているのは党内クーデターではなくて党のランクアンドファイルの覚醒であり、ロシアとヨーロッパの労働者階級を通じていざという時に備えるのだ、とジノヴィエフは続けた(おそらくこれが、トロツキー・ジノヴィエフ連合の歴史的価値を測るもっとも確かな基準であろう。その他の陰謀、例えば1944年にヒトラーにたいして企てられたクーデターは、独裁者に彼らの計画が露見するのを恐れるだけでなく、人民総体が彼をだとうするために参加することを何よりも恐れていた)。反革命の犠牲者はロシアの労働者階級であろう。一国社会主義建設の過程において、革命的言辞を連ねた煙幕の背後で、台頭するスターリンのヒエラルヒーが労働者権力の残滓を取り除き、革命的世代を説滅する攻撃が開始されるだろう。この時期、党内闘争だけでこの脅威に打ち勝つことはできない。党内の多数派を説得しなくてはならないが、この多数派の権力掌握を暴力的に阻止される企てがなされれば、これを暴力によって打ち負かすことを確信していなくてはならない。あらゆる反対派の力を結合することによってのみ、こうした計画を達成することができる。
 カーメネフはトロツキーと交渉を始めており、まもなくはっきりした協定に達するだろう、と彼は私に語った。ジノヴィエフは一方で民主集権派の指導部、他の労働者反対派グループに接近し、彼らの不信感、とりわけトロツキーの不信感を取り除こうと懸命に努力していた。グルジアの反スターリン分派にも連絡がつけられた。
 私はこの協議を終えてから、ジノヴィエフ・トロツキーが連合を結び、私見ではドイツ左派はこれを支持すべきだという趣旨の手紙をベルリンに送った。
 多かれ少なかれ同じような前提から、トロツキーも同じ結論―スターリンをうち負かすべきであり、〔反対派の〕連合だけがこれを可能とする―に達した。トロツキーは、ジノヴィエフと同じくらい他からの支援を必要としていた。1923年の闘争の間、彼の支持者は主要には国家と軍の高位階層だった。党内のオールド・ボリシェビキは、分派闘争をどうにかこうにか彼と一緒に闘ったものでさえ、彼を完全にオールド・ボリシェビキの中の一人とみなしていた者はいなかった。彼はすばらしく印象的な政治家、一級の軍事指導者、雄弁家で党内に並ぶもののない文筆家だったが、「100%のボリシェビキ」ではなかった。トロツキーは党の外様であり、彼の個人的資質に依拠して党のトップ層に入り込んだのだった。彼は政治局の永久メンバーだったが、地区党組織を指導した経験はなかった。熱烈な崇拝者もいたが、彼は組織された支持を党内でもたなかった。コミンテルン議長だったジノヴィエフは、レニングラード組織の頭でもあった。特別車と特急列車で、彼は2つの首都を往復し、週の半分をそれぞれの都市で過ごした。政治局メンバーだったカーメネフはモスクワ支部を指導していた。この主の党内重要ポストは党内ランクを線引きしていた。彼の一言であれば軍、青年組織、知識人たちの広範なサークルで支持されたはずなのに、1923-1925年の間トロツキーが沈黙していたのは、部分的には、彼がいかなる地方組織にも組織的な支持を比較的に欠いていたという事実に起因する。
 トロツキーの強みは今持って軍にあった。彼は1925年1月に軍事人民委員会から排除されたが、内戦期に彼の指導のもとで建設された諸師団の間では、彼の巨大な権威は事実上手つかずのままだった。フルンゼが死んだか殺された後、スターリンとジノヴィエフはヴォロシーロフとラシェヴィッチを通じて軍内で対峙し、トロイカの3分の2の間のこの妥協が双方〔の影響力拡大〕を阻害した。その結果は現状維持、すなわちトロツキーの優位だった(9)。
 
(9)1923-1924年、赤軍およびソビエト高等教育機関の党的中枢には、少なからぬトロツキー反対派が存在した(N.ポポフ「CPSUの歴史概論」2巻273)。
 
しかし、彼の強さがどういうものであろうと、1926年のトロツキーは1923年の時よりも弱かった。2年間にわたるトロツキーおよび「トロツキスト」反対の宣伝は効果を持たなかったわけではない。彼の敵対者は強化され、動揺分子は彼から離れ、彼の支持者は彼が一貫して沈黙していることに不満を持ち、心配していた。ジノヴィエフとカーメネフはトロイカの弱い半身であり、順繰りに党大会で完敗したばかりで、未だ完全な党指導部ではあったが、彼らからの連合の申し出は軽々しく脇へ押しやることはできなかった。彼らとトロツキーが共に連合を結べば党内多数派を確保できたし、算術的多数はではないにせよ、主要な工業中心地―レニングラード、モスクワ、バクー、キエフ、ハリコフ、オデッサ―での支持を得ることができた。スターリンが地方で多数かを維持したとしても、彼は連合の都市の比重によって打ち負かされただろう。
 14回大会の後、数ヶ月の間にトロツキーとジノヴィエフ、カーメネフは何度も秘密裡に会って戦力統合の可能性を議論した。ジノヴィエフとトロツキーの重大な反目は克服されねばならなかった。結局、ジノヴィエフが反トロツキー宣伝の責任者だった。個人的レベルで、2人の間でだけはこれは可能だった。スターリン主義の機構が日々推進力を増大したために、それぞれお互いが必要であるという認識は日々強められた。レーニンが死の床についていた時、カーメネフはレーニンとの会話をトロツキーにもジノヴィエフにも報告していた。トロツキーとカーメネフの友情は2年間の中傷の間もある程度残っていた。トロツキーがドイツへ出発する時、「ジノヴィエフとカーメネフは心底からの感情を見せて私と別れた・・・」(10−トロツキー「わが生涯」p523)
 しかし、2つの分派のランクアンドファイルの間では、「ボリシェビキの永久の敵」にまつわる憎悪と不信、あるいはトロツキーにレッテル貼りしてきた人間を克服することはもっと難しかった。原則を再調整し、命題を書き換えることは、支持者にとってよりも指導者の間ではより簡単だった。にも関わらず、彼らは不屈の精神で闘争に突入した。トロツキー付きは欠いている。「われわれの最初の会合でカーメネフは宣言した。『あなたとジノヴィエフが共通の綱領のもとに現れるだけで十分である。そうすれば党は真の中央委員会を見いだすだろう』」(11 「わが生涯」p521)。
 トロツキー・ジノヴィエフ連合が事実となるはるか以前から、スターリンはこれと闘うのに忙しかった。生来の権力政治家の確かな本能で、彼は最初にその中核である軍隊を攻撃した。トロツキーによって建設された赤軍は、なおも集権的な形態のなかに彼の潜在的力と権威の土台を維持しており、その構成を変える必要があった。これ以来たびたびそうだったように、スターリンは独占権力を集中する過程を民主化と呼ぶことで覆い隠した。
「1925年、新しい時代が始まった。以前のプロレタリア軍隊理論の主導者が権力についた・・・続く数年間で、軍の74%が民兵基地に再組織された!」(12 トロツキー「裏切られた革命」p218)
 この再組織は軍事理論と何の関係もなく、まして表面上依拠していると言われた「プロレタリア軍隊理論」と縁もゆかりもなかった。寸断された軍隊の分散した部隊のそれぞれは、しっかりと地方党組織に結びつけられた。何らかの軍事部隊の説得に失敗したとしたとはいえ、いくつかの部隊は説得できた。説得できなかった部隊も、書記長から相対的に独立した統合指揮の下にある時に比べれば、計り知れないほど影響力を失った。一般的に軍がトロツキーを支持するかもしれないという偶発的要素を脇に置くとしても、スターリンがこれを恐れたのは正しかった。内戦の間、スターリンは軍内で反対派―すなわちトロツキーにたいする反対派を組織した。この闘争の中から、彼は党内政治権力の独占は軍によって重大な脅威にさらされることを学んでいた。
 より広大な規模で、スターリンは彼に反対する連合の脅威にたいして、コミンテルン諸党の再組織化を急ぐことで回答した。ジノヴィエフは今なお議長の地位を保持するに十分なほどロシア党内の権力を代表しており、これ自身が重大な妨害物だった。副官にラシェヴィッチを据えたとはいえヴォロシーロフをフルンゼに取って代えたように、スターリンがジノヴィエフに取って代わることができれば、コミンテルン再組織化はもっと早く行われただろう。現実主義者として、スターリンは当面できることを行った。コミンテルン代議員は増大する収賄攻撃にさらされた。
スターリン、コミンテルン候補の点呼をとる
 1926年の2−3月、コミンテルン拡大執行委員会がモスクワで開かれた。一時的な休戦協定がスターリンとジノヴィエフの間で結ばれた。ロシア代議員の提案に従い、執行委員会はロシア党第14回大会について討議しないことを決定した。これはジノヴィエフがコミンテルン議長であり続けることを可能としたが、その代わり彼はスターリンがコミンテルン内のスターリン反対派と闘う完全な自由を与えた。とりわけドイツ左派、マスロー・フィッシャーグループとその直近は、スターリン主義者が介入する目標となった。あらかじめ手配された儀式にしたがって、執行委員会の拡大議員が自らの敵意を表明した。声明はステレオタイプで、ドイツ左派は労働組合に関心がない、社民党との統一戦線を無視している、党内問題で民主主義が不十分である等々。しかし、すべての批判は、ドイツ左派は反ボリシェビキでロシア国家に不実であるという中心問題の下ごしらえだった。代議員たちは真の危機について―スターリンとジノヴィエフの衝突も、独ロ軍事同盟についても―いっさい言及しなかったので、この反ボリシェビキにたいする攻撃はさまざまなすばらしいいいわけによってなされなくてはならなかった。こうして代議員たちは新しいボスであるスターリンへの忠誠、ジノヴィエフとの決別、をひとたび公言すると、まさにこれらの声明が彼ら自身とそれぞれの党にスターリンの新しい教義である一国社会主義を吹き込む手助けとなった。この暗闇の中を不安げに進みながら、ジノヴィエフは、ロシア政治局の統制を彼が再獲得すれば、コミンテルン諸党を彼の政策に説得することは可能だと確信していた。代議員たちはジノヴィエフを個人攻撃することは要求されていなかったので、彼は時間稼ぎをすればメンツを失わずにすむと感じていた。
 この時期、私にとっていちばん困難だった問題は、私とマスロー、他のドイツの友人たちとの通信をGPUの干渉から防衛することだった。私は何人かのロシアの同志たちから学んだ方法を採用した。私は手紙を大きな cross of cord で縫いつけ、それからcord を数カ所にわたって封印した。もしこっそりと読むことが可能ならそうできるだろうが、GPUは封印を公然とは破らないだろうと思っていた。しかしこの前提は子供じみた間違いであることがわかった。2月執行委員会の期間中のある日、エーヴェルトが演壇に上がり、私が獄中のマスローに宛てた手紙を次から次へと読み始めた。彼は政治的な一説を読んだだけでなく、完全に個人的な箇所もたくさん読み上げて聴衆をおもしろがらせた。私は演壇に詰め寄って力づくで手紙を彼から取り上げ、彼が私と争おうとしたのでぶん殴った。私はすぐにホールを出てルクスに戻った。ジノヴィエフは何が起きたのか尋ねる電話をかけてきた。スターリンは事件の正確な詳細を調べるためにベラ・クーンを派遣した。エーヴェルトが私に規律ある行動を課そうとしたにもかかわらず、誰も手紙を再入手しようとはしなかった。
 重要な議題は、ヨーロッパ問題における合衆国の新しい役割についてだった。アメリカから流入したドーズ案による安定化と工業の合理化は、町資本主義的で帝国主義的な合衆国と、貧困で次第に依存的になりつつあるヨーロッパとの間の増大する敵対関係の前提だと分析された。ヨーロッパ経済をアメリカが支配していることは、「左翼ヨーロッパの統一」をもたらし、これを労働組合が指導してヨーロッパ社会主義合衆国へと発展するであろう。ベラ・クーンは「アメリカのヘゲモニーに退行する汎ヨーロッパ」というスローガンを提起した。
 統一戦線でソビエト・ロシアと結びついた、かかる労働組合のヨーロッパは、スターリンの一国社会主義の基盤だった。新方針がコミンテルンの演壇から共産主義諸党の代議員たちに繰り返し打ち下ろされた。これがスターリン主義者のショーの新たな一場であり、新しいスターリン主義政策と政治哲学とを一緒に吹き込んでいるのだった。慎重なスターリン支持者がパレードを監督した。それぞれの代議員は、新しい指導者への忠誠を誇示することを来たいされているのだと理解させられた。第14回大会直後のインターナショナル会議で最初の発言者が、ヨーロッパ諸党はすでにスターリンの支持の下に再配置されていることを誇示した。セマルドがフランスを、エルコリ・トリアッティがイタリアを、ディミトロフがブルガリアを、ゲシュケとエーヴェルトがドイツを(13)、ボグツキがポーランドを、キルブームがスウェーデンを、オグジャノヴィチがユーゴスラヴィアを、ダルシーが合衆国を、フェルグソンがノルウェーを代表して発言した。ロシア代議員としてスターリンは、マヌイルスキーから最も熱心な支持を受け、ロミナッゼとフィンランド代議員クーシネンからも支持された。ジノヴィエフが議長を務める最後のコミンテルン執行委員会には反対派もいた。ドイツ左派はウルバーン、ショーレム、エンゲル、フィッシャーが代表していた。イタリアの左翼共産主義者ヴォルディガはロシア党を公然と攻撃したし、ノルウェーの少数派代議員アーヴィド・ハンセンもそうした。ブハーリンは、非難にいくらか気分を害したが、ボルディガに答えてコミンテルン執行委員会それ自体は少数は代議員も出席していると指摘し、コミンテルンが非民主的だという告発を拒否した。「もしこんな議論が可能だとすると、ドイツ党とコミンテルンをいかなるテロが支配しているというのか?」ボルディガの党内民主主義の構想と、除名された左翼分派を復党させよというショーレムの提案は、ブハーリンによって「指導の継続性に矛盾がある」といって却下された(14)。ショーレムは「理解できない!」といって割り込んだが、ブハーリンは、コミンテルンが滑りやすい道を歩いているというルート・フィッシャーの意見とコルシュの赤色帝国主義という言及を特に論じた。ソビエトの国家政策と革命的プロレタリアートの政策との関係を全面的に扱うコミンテルン特別大会の開催をボルディガが提案すると、腹立たしげに却下された。
 
(13)コミンテルンの永久ドイツ代議員だったクララ・ツェトキンは、左派中央委員会の時代にはいくらか後景にいた。彼女は個人への言及、特に私にたいする言及をふんだんに散りばめて、ドイツ左派に反対する熱烈な演説を行った。スターリンは、通訳を脇において、彼女の長口舌を楽しそうに聞いていた。後にある友人が私に報告したところでは、彼は何度も「何という魔女だ! 何とすばらしい老いぼれ魔女だ!」と叫んだ。
(14)他方、テールマンは左派指導部の継続性を粉砕することの困難性に不平を鳴らした。「われわれはベルリンにスタッフを抱え、過去5年の間〔人員の〕変更はなかったが、ルート・フィッシャーの指導の下でベルリンは強い影響力を保持した。ゆっくりした過程で、徐々に、われわれは彼らを打ち負かした」。(プロトコル…)
 
 ジノヴィエフの控えめで慎重な極左派的傾向についての要約は、決定的な関与を回避した。
「われれわは相対的安定期が2年か3年続くと見込んでいた。何人かの極左派代議員は10年続くだろうと言った。(ショーレムのヤジ:誰が?)マスローがだ! マスローは、われわれが(ドイツ共産主義がドイツの命運を決するに十分なほど強力になるまで)少なくとも10年待つべきだという意見だった。
 われわれは断固として資本主義的繁栄が改善する可能性を考慮した。アメリカはドイツを手放さないであろうことは明らかである。アメリカがこれほどまでに莫大な投資をドイツにした後では、もし突然1923年12月の情勢が再来しても、アメリカがこれらの諸事件を手をこまねいて傍観することはないだろう。一方には、アメリカを通じてヨーロッパの「安定」がある。他方、ヨーロッパはまさに同じアメリカによって革命化されている。」
ヨーロッパ労働運動、とりわけドイツ労働運動はアメリカ化されてている、とジノヴィエフは続けた。緩やかな社会変化の道は労働者と雇用者との相互理解を通じていると言って、アメリカ社会の将来の発展における全階級の共通利害を強調したアメリカ労働総同盟の何人かの指導者について彼は言及した。AFLは「労働貴族による労働貴族のための組織」として特徴付けられた(16 プロトコル・・・)。
 コミンテルンの経済学者ユーゲン・ヴァルガ教授はこの命題を強調した。
「ヨーロッパは世界の工場としての優越性を失った。同様に、ヨーロッパは非ヨーロッパ市場への資本輸出においてもはやアメリカと競争することはできない・・・このヨーロッパ資本主義の分裂と構造的な変化は、われわれが安定期の長さと強さを過大評価しないよう警告している・・・ヨーロッパは短期的な好景気をはさんだ長期にわたる危機を被るだろう。いずれの危機においても、失業者の数はより大きなものとなるだろう・・・(ヨーロッパで)内戦が続き、長期間決着がつかないだろう・・・これは戦争、飢餓、疫病による「過剰」の絶滅によってのみ集結することができる。この基礎の上にヨーロッパはアメリカの付属物として復興することが可能となる」(17 インプレコール・・・)。
 執行委員会の後、全党派のスターリン主義化が継続された。3月16日付「プラウダ」はこのECCIを報じるなかで、コミンテルンのボリシェビキ化が強化するように要求した。リリーにおける7月の大会で、2月執行委員会でスターリンを最も忠実に支持した一人であるモーリス・トレーズがフランス党の新しい指導者になった(18)。1925年労働党(当時合衆国では共産党をこう呼んだ)の大会は、フォスター・キャノン分派は大部分が粛正し、モスクワによる手引きの上でコミンテルンにより忠実だと言われたルーテンベルグ・ラブストーン少数派が任命された。これは一連の似たような事件の最初のものだった。ある才人は、アメリカ党のことをモスクワから引いた電線で支えられている、と表現した。
 
(18)フランス党内で投じもっとも熱烈なスターリンの崇拝者の一人だったジャック・ドリオは、1944年に連合軍の空襲で死んだ時、ナチの支持者となっていた。
 
英ロシア労働組合連帯委員会
 翌年にかけて、3ヶ月ごとに開かれるロシア中央委員会執行委員会での分派闘争が激化した。これら執行委員会でスターリンは、正式に選出された大会につながる党内討論によってのみ中央執行委員会の政治的構成を変更することができる、というなおも党内では強力だった伝統的な手続きに反して、中央委員会のメンバーを一人づつ入れ替えることに成功した。これら執行委員会は次の大会にいたる中継駅であり、競争する双方が大会で支持を得て新しい方策を採用することができた。しかしこの時期には、これら〔定期的中執会議〕もスターリンが自らのグループの独裁を構築するための方策の一つであった。2つの水路を通じてのみスターリンに反対することが可能だった。党の制度を通じてか、非合法かである。合法的な闘争を放棄することは、共通綱領の周囲に反対派の力を結集することは国家制度を用いて綱領を宣伝することによってのみ可能だったため、すぐに勝利する望みをあきらめることを意味したであろう。ひとたびジノヴィエフ・トロツキー連合が形成されると、またこの時だけ、直接行動という問題を取り上げることが適切だったであろう。
 トロツキーがドイツへ出発する直前に開かれた1926年4月の中央委員会執行委員会で、それぞれの反対派グループは別々の声明を提出した。彼らの連合はまだ結論が出されなかった。ジノヴィエフは特にあらゆる労働者反対派グループが連合に包摂されることを望んだ。彼は反スターリンの闘いを「国家機構に反対する労働者」というスローガンの下で指導することを望んだ。
 
 この4月中央執行委員会でジノヴィエフは、恥知らずにも党の綱領を歪め、工業管理を労働組合にゆだねることを党がこれまで控えてきたという事実によって中央委員会を非難した。すなわち、旧「労働者反対派」の要求を直接擁護したのである。(19 N.ポポフ「CPSUの歴史概論」・・・) 
 
 トロツキーがドイツから戻るとすぐに、さまざまな要素が〔反対派の〕連合を後押しした。国内情勢は悪化していた。生産の縮小、賃金の引き下げ、少ない消費財。労働者に無気力が蔓延している兆候があって、例えば最近のソビエト選挙に参加した労働者は、反対派の推計によると52から57%だった(20)。1926年の4月から7月までの間に、連合は公式な合意に達した。これは以下のグループからなっていた。
1、トロツキー反対派。
2、レニングラードを中心とする新反対派。
3、サプローノフが代表する民主集権派グループ。
4、シリャプニコフとメドヴェーデフが代表する労働者反対派。
5、グルジアの反スターリン分派。
後の3つのグループはすでに党の外に片足を置いていた。彼らは党のランクアンドファイルおよび非党員労働者から支持されていた。
 反対派連合はこうしてボリシェビキ古参の大部分を集結させた。これは、党ヒエラルヒー内部で台頭する新しいカースト制度に反対する工業中心地と、スターリン路線にたいする内戦世代の抵抗の雰囲気を体現していた。スターリン主義分派は一連の策略によって党員を統制することの上に台頭し、「容赦なく」国家権力を用いていかなる反対派も粉砕することに成功した。これらの戦術が、全体主義的な手法が強まることによって党の統制から排除された党員内のあらゆるグループを、最終的には合同へと追いやったのである。
 連合は国外にすばらしい支持があった。14回大会以来スターリンは、反対派の支持者を国外に派遣することでロシア国内の反対派分派を弱体化させてきた。この当時にはほとんどの大使館と貿易公使館にジノヴィエフかトロツキーに同情的な人々が配置されていた。こうした公式の国家公務員はスターリンの方針を支持しなくてはならなかったが、彼らは連合からの情報を国外党の反対派分派に伝え、国外での〔反対派の〕発展を連合に伝えるすばらしいネットワークをつくりあげた。スターリンの政策をサボタージュすることで、彼らは書記長にたいする圧力を強めた。もし連合が勝利を得るならば、広い経験と国外での価値ある接点を獲得した古参ボリシェビキとトロツキー主義者のこの巨大な宝庫に、連合は依拠することができた。
 1926年4月の直後、ロシア国外で両陣営に重要な影響をもたらした二つの事件が起きた―ポーランドにおけるピルスツキのクーデター、イギリスのゼネストである。
 5月12日、ピルスツキはワルシャワを進軍し、3日間の市街戦の後、農民指導者Witoszが率いる内閣を打倒した。数日後、大部分をクーデターに参加した「将軍連」に依拠する彼の新政府はポーランド国会で過半数の得票を得た。ロシアの前庭で起きたこの事件は誰しもを不安にさせ、続く数ヶ月の間、党指導部はあらゆる面からこれを分析した。
 いくつかの翼に分裂していたポーランド共産党はピルツスキに程度はさまざまだが批判的な支持を与えがちだった。おおむね行き過ぎはなかったが、ポーランド革命は、次の一歩前進として、ポーランド労働者階級の全般的な運動へと統合されなくてはならなかった。だが、ピルスツキのクーデターをロシアの脇腹にたいするイギリス・アメリカの攻撃と解釈したロシア政治局によって、この政策はただちに訂正された。あるアメリカ人の専門家、E・W・ケメラー教授が、ドーズ案をモデルにして融資の基盤を準備するために、1925年の秋からポーランドでの調査を指導していた。不安とともにモスクワは、ソビエト・ロシアのまさに国境へとアメリカの影響力を拡大するこの試みに留意していた。
 他方、ピルスツキの一揆は、全体主義的統治へと向かうヨーロッパの全般的傾向に貢献したが、この場合は完成の域に達することはなかった。ピルスツキーは、実現することはなかったが、産業の国有化、国家補助による農業開発・振興計画という計画を抱いていた。政治局の解釈によれば、ポーランドはイタリアの事例に続いてファシズムと軍国主義に向かう新たなヨーロッパ小国だった。
 クーデターは分派闘争にも影響をもたらした。〔反対派〕連合はここから別の側面を探り出した。3日間、最小限の流血と無秩序を伴ってピルスツキは政権を奪取したが、この国の社会機構に何の変化ももたらさなかった。ポーランドでこれほど容易になされたことがロシアで可能でないはずがあろうか? 国有経済の社会的基盤を保持したまま政権を奪取することが反対派にできないことがあろうか? 反対派はこのように考え、同じような政治的予兆を読みとることができたスターリンは自らの統制を強めた。
 イギリスのゼネストは、これが起きたというまさにその事実によって、ロシアとイギリスの労働者間の同盟はすぐに可能である、というスターリンの命題を確証したように見えた。スターリンは自らの一国社会主義論をレーニンの「帝国主義の不均等発展の法則」(21)のスターリン版に依拠していた。ヨーロッパを制圧するというアメリカ人の試みは、アメリカのヘゲモニーに反対する労働組合のヨーロッパ資本主義の発展を促し、社会主義ロシアはこのconclaveにおいて最初は協力者として、やがては指導者として受け入れられるだろう。
 
(21)「(第6回世界大会で採択された綱領)案は、その第1章で、「経済的政治的不均等の発展は資本主義の無条件の法則である。帝国主義の時代にあって、この不均等はなおも加速し、悪化している」
「これは正しい。この公式は部分的にはスターリンの最近の問題の定式化を非難しており、これによればマルクスとエンゲルスのいずれも不均等発展に無知だったのであり、レーニンによって最初に発見されたというのである・・・」
「より性格に言えば、人類の歴史全体が不均等発展の法則によって支配されてきたのである・・・さまざまな時代において、極端な多様性と、人類の異なる部分の発達程度の極端な不均等とは、資本主義の出発点として役立ったのである」(トロツキー、「レーニン後の第3インターナショナル」、ニューヨーク、1936年、pp18-19)
 
 1917年の革命以来、イギリス労働者階級の間では強固な親ソビエト感情が存在していた。イギリス労働組合の政策にもこれはかなりの程度反映していたが、これが直接反映していない時でさえ、しばしばランクアンドファイルの圧力は、これがなければ反ロシア的態度になりかねないものを変更してきた。フェビアン社会主義者でイギリス労働組合運動の年代記編者であるシドニーとビートリス・ウェブは、非共産主義者によるほとんど公的なソビエト・ロシアの擁護者となったことがその雰囲気を実証している。1920年には、よく知られた労組指導者アルバート・A・パーセルの妻、フィリップ・スノーデンおよびロバート・ウィリアムズを含めたイギリス派遣団がロシアを訪問した。ジノヴィエフ書簡事件があった間、イギリス労働組合は自国政府の攻撃に反対してソビエト連邦を擁護した。もっとも熱心なソビエト連邦擁護者の一人が、炭坑労組委員長A・G・クックだった。彼は2国間の連携を推進した労組指導者の一人だったが、その中には、彼の旧友で長年にわたって共産党指導者の一人であり、炭坑労組南ウェールズ地区の委員長だったアーサー・ホーナー、1924年に離党したエレン・ウィルキンソン、フィリップ・プライス、ジョージ・ランズベリーなどがいた。イギリスは、エレン・ウィルキンソンのように地方の共産党から飛び出た異端者がモスクワとの友好関係を継続し、誇示することができた国の一つだった。
 このソビエト・ロシアにたいする共感は、全期間にわたってイギリス外交当局の公式の政策とは逆行していたが、1925年の英ロ労働組合連帯委員会の結成によって打ち固められた。ホランダー・フィメン(30年代のヨーロッパ労組サークルのなかでもっとも重要な人物)が議長を務める運輸労働者インターナショナルによって支援され、英ロ委員会の左翼は、ヨーロッパで最も保守的なイギリス労働運動をロシアとの協力関係に転回させるのにに十分なほど強力だった。ロシア労働組合第6回大会では、こうした委員会を結成するという決議が採択され、この提案はイギリスでも受け入れられた。今度はパーセルが代表を務める別のイギリス労組派遣団は、1924年暮れの期間にロシアを旅行し、彼らが見たものについての熱烈な解説を書いた(23)。トムスキーは、ロシア労働組合の代表として返礼訪問した。彼は1925年フルで開かれた労働組合大会の兄弟的な代議員だった。5月14日、英ロ委員会を結成することが同意され、2カ国の労組代表によって批准された。
スターリンは、顕著な反ロシアだったアムステルダム労組インターナショナルからイギリス労働組合が分裂し、新たな労組インターナショナルの中核となることを望んでいた。モスクワが指導する労組インターナショナルだったプロフィンテルンは、そうなればこれに統合されるか解散することが許されるだろう。ロシア党内での反目が強まった時、行き詰まりからの脱出口をヨーロッパにおける根本的な情勢変化によって見いだしたい、というかすかな希望は死に絶えていなかった。ジノヴィエフもブハーリンもイギリス労組との和解を強い関心をもって見守り、英ロ委員会の結成に続く数ヶ月間の間、彼らもロシア指導部も総じてこれを新しい時代の前触れとして解釈した。これらの弱くて堕落した労働運動の代表たちは、ロシア社会の経済的現実という石の要塞につながれたまま、誇張された希望を持って国外の労働者の動きに相対した。スターリンにとってこれは、彼の一国社会主義の成果だった。主要な課題は今やソビエト・ロシアの防衛となった。社会主義はプロレタリア革命によってではなく、ロシアの実例によって達成されなくてはならない。
 英ロ間の労組協力についてもっとも批判的だったのがトロツキーだった。提携は最初の試験で崩壊するだろう、と彼は警告した。根本的に自らの政府に忠実なイギリス労働組合は、英ロ間のいかなる深刻な衝突が生じても自国政府を支持するだろう。英ロ労組連帯委員会と同志トムスキーを通じてモスクワ書記局の事務所から操るには、イギリス帝国主義はなおあまりにも強力である。ロシアとイギリスの利害衝突はこんなふうに簡単には克服できない。イギリスの階級闘争はまだ成熟しておらず、革命で最高潮に達したロシアの階級闘争は後退している。労働者階級の上位層を連結することで2つのグループを結びつけようとする試みは、失敗するより他はない。イギリス労働運動を深く誤解して、その労組を彼の権力機構の下へ巧みに操れると考えたのは、スターリンの特徴である。
 新構想の試験は、1926年のイギリスのゼネストとこれに続いた9ヶ月の炭坑ストライキとともに到来した。ストライキはイギリス労働者階級の潜在的な戦闘性を誇示した。これはイギリス社会を深刻に揺るがした。この年の間、共産党の党員は1万2千人にまで急速に増大し、新聞の発行部数はその十倍に達した。ソビエト労組は巨額の救援基金を計上してイギリスのスト参加者を支援した。ストライキは破産した。ほとんどの労組指導者、特にアーネスト・ベヴィンはストに強力に反対した。ペトロフスキー、トムスキー、エーヴェルトら、スターリンがロンドンに派遣した人々は、英ロ委員会存続の希望を託して、TUC総評議会のスト破り政策を事実上支持した。指導部を獲得できなかったので、彼らはこの態度によって何も勝ち取ることはできなかった。指導部にたいするイギリス労組の深い失望は共産主義に対しても向けられ、彼らの影響力は著しく弱まった。
森の中の集会
 イギリスゼネストの敗北はモスクワでも深く感じられた。イギリスにおけるトムスキーその他ロシア人の存在は2カ国間の緊張を高め、続く数ヶ月の間に戦争の瀬戸際にまで達した。イギリス労働組合はボールドウィン内閣の政策にたいして何も効果的な抵抗を行わず、英ロ労組間の「団結」は特に中国問題という国際紛争の岩礁に乗り上げて崩壊した。1926年6月26日、イギリス下院の大荒れの会議は、先立って発表されたイギリスの共産主義者とモスクワとの通信を証明する内務省報告を討議した。翌日、イギリス諜報部の浸透から国を守るというありがたい必要から、ロシア国内でGPUの権限を強化する新しい法案が採択された。
 スターリンは主に反対派に対抗して強化された権力を行使したが、反対派はイギリスにおけるスターリンの政策の敗北から顕著な利益を得ていた。この新しい法律にも関わらず、トロツキーとジノヴィエフは、全国で彼らの試みにたいする反響があったことから、今や必然的に非公然的な連合への支持を組織するという彼らの企てが勇気づけられたと感じた。はるかウラジオストックにまで連絡がつけられた。散在する非合法組織は3つの委員会に指導された。暗号表を携行した反対派通信員が派遣され、政治局文書が配布された。これ自体が重大な犯罪だった。彼らは秘密裏に反対派メンバーの自宅に宿泊したが、当局の事務所は完全にGPUスパイが仕込まれていた。配布員は「白衛軍」の流れ弾を避けるため、護衛と一緒に旅行した。彼らが会合する時には、GPUの襲撃から守るために護衛が立哨した。
 他方、除名は続けられた。党から放逐されたのがどんな人々だったのかを示す目安として、1926年6月26日モスクワで除名されたグループに関して中央統制委員会が作成した経歴の記録を少し引用することはおそらく価値があろう。
1、ミハイロフ、モスクワ工場の管理者。労働者反対派のミヤスニコフを支持。チューガエフ、オシップ、ヤツェクと共に、秘密文書をガリ版で印刷して配布。このグループは自らを「労働者の真実」派と呼んだ。
2、G・Y・ビエレンスキ、1884年生まれ。1901年に社会主義者となり、1903年からボリシェビキ。独学。1908年に入隊。1912年から職業革命家。モスクワのクラスナヤ・プリエスニャ地区組織書記。(私はビエレンスキと知り合いだった。彼は労働者社会主義者の素朴なタイプで、モスクワのランクアンドファイルに大変人気があった。革命の大義に骨の髄まで捧げていた。)
3、Y・S・チェルニショフ、1892年生まれ。農民出身。1918年から党員。ツァーの軍隊に入って後、1919年から1921年まで赤軍在籍。ビエレンスキの組織のメンバー。
4、B・G・シャピロ、1898年生まれ。鍛冶工。1918年入党、赤軍。
5、M・W・ヴァシリエフ、1895年生まれ。織物工。1917年に入党。
6、N・M・ヴラソフ、1884年生まれ。鍛冶工。1918年入党。
 この増大する圧力の下で、連合の指導者は最初の第一歩を計画し始めた。もし数的優位を彼らが獲得したとしても、彼らはスターリンが党指導部を禅譲しないと確信しており、党の意志を実力で裏付ける準備をしなくてはならなかった。おそらく反対派指導部の突然死といった、さらなるテロとの闘いを強いられることを予期した。トロツキーもジノヴィエフも個人的な予防策として、コミンテルンの建物の制限された区域に行く時ですら、献身的な友人を1人か2人必ず伴った。
 
「ジノヴィエフとカーメネフが1925年にスターリンと絶縁して後、2人とも書簡類を信頼できる場所に保管した。
 『もしわれわれが突然行方不明になったら、これはスターリンの仕業だと思え』。
 彼らは同じようにするよう私にアドバイスした。カーメネフが私に言った。『スターリンは君の議論にどうやって反論するかばかり考えている、と君は想像している。断じてそうじゃないんだ。彼は罰せられることなくどうやって君を抹殺するかを計算しているんだ。』
 ・・・これは推測ではなかった。トロイカ蜜月の日々、彼らはお互い率直に話し合っていたのだ。」(25 「わが生涯」)
 
 この党内情勢については、よく引用されるレーニン未亡人の言及がいちばんまとまっている。もしレーニンが今も生きていたら、彼は獄中にいただろうと。
 こうして、反対派指導者が彼らの計画の軍事的側面について討議すると決定した時、彼らには会議する場所がどこにもなかった。全く安全だという場所はモスクワのどこにもなかった。どんな部屋にでもGPUの耳があるかもしれなかった。彼らはモスクワ近郊の森の中で会合し、「合法的」反対派が十分な強さを得るかどうか、得るとすればいつかという、今もトロツキーに忠実な軍隊内の部隊の役割について討議した。これは大半が技術的問題であり、トロツキーとラシェヴィッチという2人の軍事指導者の間で調整すべきことだった。ラシェヴィッチが赤軍の副司令官として合法的な地位をまだ確保していたので、反スターリンの軍事行動の下準備は彼に割り当てられ、連合の指導委員会が設定した瞬間に行動に移されることになった。他方、彼は士官の間にも反対派を組織し、彼らが同時行動をとるよう準備することとした。トロツキーとラシェヴィッチが合同した権威で軍隊内の影響力を十分に確保し、党内の潜在的多数派を支援すれば、スターリンは戦わずに辞任するかもしれないと期待された。
 モスクワ滞在中、私はこうした準備をG・L・シュクロフスキーから聞き、後にベルリンの友人からも聞いて、議論がいかに複雑なのかを知った。反対派連合は、党の統制によって大半が地下に潜っている闘争に、軍事的圧力をどの程度結びつけるべきなのかという問題で分裂していた。クーデターを企図したことはない、党と国内の支持なしにスターリンを打倒しようと望んだことはない、とトロツキーが繰り返し声明した内容より確実なものは何もない。これらの人々は、みな古い学校の革命家で、反革命暴力によって双方が打倒されるような国内の騒擾をもたらすかもしれない路線の前で長い間ためらっていた。ロシアを分断し、資本主義の復興で終わるかもしれない無秩序の最初の一環を投げ落とす恐怖は、ロシア内外の反スターリン主義にとってもっとも深刻なハンディキャップだった。これは、過去四半世紀にわたって反スタ・グループを次から次へと解体するのに貢献した重要な要素である。
 反対派がソビエト社会を混乱させる恐怖でもがく一方、この社会の基礎はスターリン権力機構へと鍛造されていった。スターリンはエージェントを通じて森の集会をかぎつけ、こんなふうに反対派指導部が会合していると知っただけで、その議題の中身は何も知らなかったのに、仰天した彼はクーデターの脅威に党を怒らせようとした。会合で、ポポフが言うには、ラシェヴィッチが「『中央委員会の膝を屈させる』合同反対派の計画を詳述し、赤軍内部の組織活動の必要性に特別な関心を払うよう聴衆を熱心に説いた」。(26 ポポフ)
 しかし、6月に行われた次の中央執行委員会までに、私はベルリンに戻るよう手配された。マスローは2年以上獄中にいて、7月10日に行われるドイツの大赦の一環として釈放されるはずだった。6月の始め、ジノヴィエフは、スターリンがモスクワをしばらく休暇で離れてコーカサスへ行く、彼の不在を私の関門を開くのに利用できる、と告げた。私が演じることができるか、と彼が尋ねるので、あまり変な手続きでない方が私は好きだと答えた。ブハーリンが政治局での責任をとる、と彼は語った。彼は個人的にあなたを気に入っているので援助してくれるだろう、でもあなたは彼が規律に反する行動をとる口実を与えなくてはいけない。最終的に私は同意し、われわれは行動を準備した。
 翌日、私は政治局会議に押し入った。ジノヴィエフが立ち上がり、怒ったふりをして私に出ていくよう命じた。彼は守衛が通行を許可したことを叱責した。私は机を叩き、私は家に帰らなくてはいけないと叫んだ。長い間抑圧していた感情が解き放たれて爆発した。私は失神した。気がつくとブハーリンが私にお茶を入れてくれていた。ルート、あなたは家に帰れるよ、と彼は言った。われわれは自分の同志に対するテロリストじゃない。私はピアトニツキーにあなたのパスポートを準備するよう命じたところだ。
 私はコミンテルンの車でルクスに送り帰された。数時間後、険しい表情で全く他人行儀のピアトニツキーが私のパスポートを持って現れた。彼は旅費を与えることを拒み、私の友人たち(特にヘンリク・ドムスキー、彼は1936年にモスクワで銃殺された)がお金を集めて回った。私は同日に出発し、ロシア国境を越えてGPUが私を列車から引き下ろさないと確信できるまで緊張していた。何ら有罪となるものを携帯していないと確信するまで、私は何度も荷物と文書類を点検した。残りの荷物はジノヴィエフ・グループに同情的な外交通信員によって後日ベルリンに運びこまれた(27)。
 
(27)1926年7月4日、コミンテルンのドイツとロシアの代議員は全会一致で以下の決議を採択した。「中央執行委員会は、同志ルート・フィッシャーが1926年3月31日のコミンテルン決議、プロトコル55号、11-A節並びに1926年6月5日付コミンテルン執行委員会書記局決定、プロトコル19号、19節に違反してドイツに戻ったと声明する。この行動は国際党の規律にたいする重大で自覚的な破壊行為である」(インプレコール・・・)
 
この挿話は、これ自体はとるに足りないものだが、レジスタンスが全体主義体制にたいして用いた間接的な方法を描いている点で重要である。ジノヴィエフがブハーリン、ピアトニツキーと一緒に逃亡の詳細を手配したことを私は確信しているし、彼らはスターリンの規律の下にあっても彼に反抗する小さな行動に参加するよう配置されたのである。しかし彼らはスターリンにたいする予防措置を必要とし、口実をつくらねばならなかった。ブハーリンは、私が外国の記者に引き寄せられかねないほどの興奮状態にあって、記者の何人かはコミンテルン当局が彼女の意志に反してモスクワに引き留めているという話を享受するだろう、と指摘することができた。ピアトニツキーは、指示にしたがってパスポートを発行したが、それ以上のことは何もしていない、と指摘できた。彼は私に旅費を与えることを拒否したのだ。
 7月の執行委員会で、連合は党員全体の前に初めて合同反対派として登場した。トロツキーがグループ全体の何おいて読み上げた声明では、トロツキーとジノヴィエフは相互に攻撃しあった過去の過ちを認めていた。トロツキーが1923年に党官僚組織を攻撃したことは正しかった、とジノヴィエフは宣言した。他方、トロツキーは、彼がジノヴィエフとカーメネフを彼の著書「10月の教訓」で「日和見主義」と非難した時、彼は重大な間違いを犯したことを認めた。この相互の特赦は、「原則の全面的な欠如」としてすぐさま攻撃されたが、全部の敵が統一することはスターリン・グループにとって重大な危険だったからである。反対派連合の中には多くの相違が残されていたが、2つの基本点で彼らは団結した。ロシアだけで社会主義建設を行うことは不可能である。革命的国際主義を放棄することで、ボリシェビキ党は腐敗しつつある。レーニンを言い換えて、「官僚的に歪んだ労働者国家」について声明は述べていた。これはスターリン・グループを以下のように非難した。
 
1、資本主義的水路へとわが国の発展を転向させようと欲するこうした力の無節操な成長
2、クラーク、ネップマン、官僚の強さが増大するのに反して、最貧の農民、労働者階級の地位が弱まっている
3、国際資本主義との闘争において、労働者の状態が全般的に弱体化していること、ソビエト連邦の地位の国際的地位の低下(28)。
 
(28)トロツキー「真のロシア情勢」(p.33)に引用された反対派声明から。反対派のあるメンバー、J・A・オソフスキは新しいプロレタリア党をただちに合法化することを要求した。彼は7月執行委員会の直後に除名された。1893年生まれの鍛冶工で、1918年に入党し、計画委員会のメンバーとなった。最初は1923年3月に除名され、1924年1月に復党が認められたが、1926年8月10日に再度除名された。彼はメンシェヴィキと社会革命党を含む反対派諸党に合法的権利が与えられるように要求していた。モスクワでは、これらの改良的社会主義の承認に言及するだけでもひどい裏切りであり、ヨーロッパの改良主義的労働組合との団結にまで行き着く〔??訳不明〕
 
 連合は、国家党を民主的労働者党へと完全に移行させることを基盤として工業化政策を提起した。執行委員会の公的報告は、彼らの「超工業化」綱領にたいするスターリンの非難であふれかえった。反対派綱領は工業化と「労働者管理」との切り離すことのできない前提に依拠しており、これは国家党によるソビエト工業の独占的統制にたいする宣戦布告だった。他方スターリンは、自立した労働者組織の残滓がすべて粉砕された後になってから、全面的な工業化を開始した。当時は、国家党を弱める危険を冒すより、農民的ロシアを現状維持することを彼は好んだ。
 国家党による権力独占、その中の彼のグループの権力独占のために、スターリンがどんな過程を通じて闘ったのか理解されていないので、トロツキーの「超工業化」計画にたいするスターリンの厳しい拒絶は、リベラルな観察者をしばしば悩ませる謎となっている。反対派の工業化計画とスターリンの5カ年計画とは同じではない。これらは異なる地点から出発し、異なる社会類型へと向かっている。早くも1924年に、ジノヴィエフは貧農の党をソビエト内で認めることを検討していた。1926年4月の執行委員会で、労働者民主主義という反対派のこのスローガンは、労働組合に〔工業の〕管理を与えるべきだという主張によって後押しされた。5カ年計画のようなテロリスト型の工業化は、「労働者の組織」が粉砕された後になって実行が可能となった。
 7月執行委員会の主要な論点はコミンテルン政策だった。大英帝国におけるスターリン政策の敗北、ドイツ党の公然たる分裂、ヨーロッパ他党にたいするその影響―これらすべてがスターリン主義者の崩壊的影響を非難するために使われた。スターリンは、連合が今や公然と味方しているマスロー・フィッシャーのグループを数ヶ月前までジノヴィエフが非難していたことを最大限利用して反撃した。
 7月執行委員会は反対派連合にとって道義的成功で終わった。下部党員は団結し、好ましい反響が党内から返ってきた。党は今や新しい闘いが続いているのだということ、スターリン・グループを打倒するチャンスがあるのだということを、いたるところで知ることとなった。経済情勢は悪化していた。「穀物徴収政策」は国家に穀物の予備を残さず、自由市場から高い価格で買い付けることを余儀なくさせた(29)。しかし反対派は重要な組織的地位を失った。ジノヴィエフは政治局から、ラシェヴィッチは中央委から降格された。カーメネフはさほど重要でない貿易委員会のポストからさえも排除され、A・Y・ミコヤンに取って代えられた。
スターリン、反対派から党的合法性を剥奪
 コミンテルン内部の闘いは強化された。コロンタイは、モスクワからさらに遠ざけるため、ノルウェーからメキシコに左遷された。カーメネフは東京大使ポストの申し出があったが、これを拒否した。8月20日、ブハーリンは、ジノヴィエフの法定推定相続人としてドイツ党をいそうするためにドイツへ飛んだ。
 2ヶ月前に私はベルリンへ戻っていたが、さまざまなグループがドイツ党内で今なお白熱した闘争を続けていることがわかった。マスローは7月10日に釈放され、われわれは共にロシア国内のジノヴィエフ・トロツキー連合を支援した。ブハーリンが到着した時、彼はモスクワで騙されたことに激しく怒ったふりをした。スターリンの指示を遂行し、マスローと私だけでなく、他の3人の左翼指導者、フーゴ・ウルバーンス、ウェルナー・ショーレム、ウィルヘルム・シュヴァンを即座に除名するよう手配した。われわれは、われわれの綱領を受け入れた他の国会議員何名かと共に国会内で別会はを形成した。われわれはベルリンに本部を設け、宣伝を強化した。1927年半頃、チューリンゲンのズール地区党組織が、日刊紙「人民の声」を携えてわれわれの下に参加し、ロシア反対派の政策を宣伝し始めた。
 7月執行委員会の後、連合はロシアで非常に活動的になった。そのメンバーは個別の細胞会議を訪ね、次の大会に向けた要求を形成しようと試みた。細胞討議へのこの介入はスターリンにとって許し難い犯罪だったが、それは邪魔されることのない細胞メンバーの操作が独裁的統制の基本的前提だったからである。例えばトロツキーとジノヴィエフは、モスクワのアヴィオプリボル飛行機工場の会議に出席した。飛行機工場の労働者を獲得しようとしたこの試みは、とりわけ危険だとみなされた。
「機構は怒って反撃した。イデオロギーの抗争は、官僚的メカニズムに置き換えられた。あらゆる集会の目前で、最中にかかってくる党官僚組織からの電話の呼び出し、あらゆる集会の会場前に自動車が集結してクラクションを鳴らす、反対が演壇に登場すれば組織された口笛とブーイング」(30 「わが生涯」)。
 
 中央委員会は反対派に抗して「特別闘争部隊」の結成を命じた。内通者の大群が組織され、細胞会議を監視し、報告するために派遣された。10月執行委員会の直前、スターリンは全国で反対派を解雇するよう命じた。何人かは逮捕された。その多くが、党の任命という口実によって極東や北アジア・ロシアへと移送された。男と妻はたいていの場合異なるポストに配置された。
 この圧迫はスターリンから反対派指導部への新たな申し出と同時になされた。もし彼らが犯罪中の犯罪―党を分裂させた―を拒否するなら、スターリンは大半のトロツキストとジノヴィエフ主義者の復党と国家内の地位への復帰を認めよう。反対派指導部はGPUによって彼らの支持者がアトム化されることを恐れ、申し出を受け入れることを決定し、スターリン主義者の機構にたいする非公然活動を継続する時を稼ごうとした。10月16日、執行委員会の1週間前に、
 
「われわれは、自らの立場を検討し、党の枠内で闘う権利を保留しながらも、分裂の危険を生じさせる可能性のある活動をしないことを告知する宣言を発した・・・これは、党にとどまり、党に奉仕したいというわれわれの願望を表現していた。スターリン主義者は翌日から休戦を破り始めたが、なおもわれわれは時を稼いだ。1926-1927年の冬は、多くの問題を理論的に精査する息継ぎの時間をわれわれに与えた」(31 「わが生涯」)
 
 この声明の一部として、トロツキーとジノヴィエフとはロシア国内の労働者反対派およびコミンテルンの左翼反対派と決別した。
 10月14日、ノルウェーの左翼共産主義者アーヴィド・ハンセンが、彼にとっては大変個人的な危険を冒してのことだが、ロシア反対派の秘密文書の小包を携えてベルリンに到着した。ジノヴィエフに献身する彼は密使となったが、もし国境で捜索されれば彼のノルウェー市民権は役に立たないことを自覚していた。われわれは文書を熟読し、どれを翻訳して発表し、どれをわれわれのグループ内で回覧するかを決めた。この束は大きくて、われわれは3日間ぶっ続けに働いた。その後、日曜の夕方、われわれは散歩に出た。われわれは新聞を買い、その見出しで、ジノヴィエフとトロツキーが反対は活動を否認し、マスロー・フィッシャーグループと絶縁したという見出しを呼んだ。ハンセンは完全にうち砕かれてしまった。彼は1週間前モスクワを出発し、長時間の親密な会話でジノヴィエフは彼に最大限の堅固さを要求したのだった。彼は「裏切り」を理解することができなかった。彼は反対派と絶縁し、スターリンの下へ帰っていった。
 宣言の動機を理解できなかったのはハンセンだけではなかった。反対派連合の団結にとって破滅的な結果をもたらし、特にロシア国外ではそうだった。何度も何度も、これは「性格の欠如」「原則の欠如」「降伏」の例として引用されてきた。しかしこうした評価はポイントを外している。この時だけでなく後の撤退もリベラルな尺度から判断することはできない。これはハンセンのノルウェーで起きたのではない。この過渡期の年月には、党と国家で台頭する全体主義的特徴にたいするレジスタンスは、独裁的形式をとるようになった党生活に適応させなくてはならなかった。撤退と再結集のために強く押し、それから再度攻撃する時が必要である。連合は「原則」のためにスターリン独裁の党との闘争であまりにも闘わなかったことに罪があるのではない。絶滅の危機が切迫するまで撤退があまりにも遅れ、自らの時と条件によってではなくスターリンの挑発によって闘争を再開したことが問題だったのである。
 こうしたやり方で、スターリン主義者のグループは、1926年10月22-26日に開かれた中央委員会と中央統制委員会の合同執行委員会において、圧倒的多数派を獲得することが可能となった。これはトロツキーを政治局から排除し、カーメネフをその母胎から切り離し、ジノヴィエフはコミンテルン議長を解任された(32)。しかし、この粛正でさえ、闘いの勝利とは言えなかった。スターリンは異常なまでの脅迫と党内テロで多数派をかちとり、その代価を支払ことになった。党員は支持を強いられたが、その反感も買った。もし連合がロシア内外で再出発することができれば、スターリン多数派は消散したかもしれなかった。
 
(32)11月22日、トロツキーも科学技術学院の目立たない議長職も解任された。数日後、天才的なスターリンの陰謀によって、ジノヴィエフは国家計画幹部会のメンバーに任命された。
 
 10月執行委員会の後で、中央統制委員会はドイツ左派の指導部を、彼らの除名を再検討するためにモスクワへ招請した。われわれはこの申し出を受け入れるかどうかベルリンで長時間討論し、最終的にはロシア市民権を持つマスローは行くべきでないが、われわれの残りはわれわれの見解を宣伝するチャンスを探る可能性は、明白な危険を冒す値打ちがあると決めた。モスクワでは、シュクロフスキーが「正気じゃないんじゃないか?」という言葉で私を迎えた。ジノヴィエフとトロツキーの動きに勝利して、スターリンは疑いもなく彼らの声明をフルに活用し、われわれを彼の下に獲得しようと望んでいた。
 委員会の議長はオットマル・V・クーシネンだった。ほとんどの会議は秘密だったが、ドイツ共産党を破壊したという非難からロシア政治局を擁護するため、聞き取りの一部の速記録が発表された。スターリン主義者の脅迫の実例として、公的記録からその一部をここに再録する。
 
「クーシネン:・・・われわれはドイツ党から除名された5人の訴えを扱わねばならない。ルート・フィッシャー、マスロー、ウルバーンズ、シュヴァン、ショーレム、さらに彼らの追放に言及した全ての材料を精査しなくてはならない・・・われわれは、彼らが共産主義者か反共主義者か、党とコミンテルンに復帰するに値するかどうか、彼らの追放が最終的に認められるべきかどうかを確証するため、聞き取りを行った。彼らはこの手続きに満足せず、例えば同志ラデックに不満を述べた(ヤジ:聞け、聞け!)
フィッシャー:われわれはここへ告発されるためではなく、告発者としてきた(!)。コミンテルンとドイツ共産党で現在行われている政策は、コミンテルンとドイツ共産党を破滅させるであろう。
クーシネン:このわが「告発者」の一人が会議を欠席している。5人のうち4人だけがやってきた。カッペルマイスターは姿を見せなかった。彼は、拡大執行委員会の会議の前で自らの告発を擁護する代わりに、コミンテルンとドイツ党にたいする攻撃をドイツ警察の保護の下で継続することを好んだ。やってきた4人は、5人目に指示された通りのことを言っている。
 「われわれはマスローだけは連れて来なかった。彼をあなたがたの手中に提供しないためにだ。」
 彼の仲間たちは、もし彼がここに来れば、彼が帰国する自由を危険にさらすことになると、この委員会で暗示した。われわれは、党組織は党員を処分するにあたって単に道義的手段しか持っておらず、党の法廷の決定は道義的拘束である、とわれわれは言った。しかし彼らの返事は、「われわれはソビエト組織に何の忠誠も持っていない!」というものだった。
 われわれは全部で16項目の質問を彼らに行った。この質問にたいする彼らの答を私は簡単に報告しよう。
 「あなたはソ連邦の政策すなわちプロレタリア独裁国家と国際革命の利益との間に何らの確執もないと認めるか?」
 ルート:フィッシャーが答えた。「この問題について、われわれはロシア反対派の見解に立脚し、同志ジノヴィエフの定式化に完全に同意する。」
 これについてわれわれは言及した。「しかし同志ジノヴィエフは公式にあなたを否認している」。しかしルート:フィッシャーは以下のような形で最初の彼女の発言を繰り返しただけだった。
 「これらすべてのロシア問題について、われわれはロシア反対派の見解に立脚する・・・とりわけプロレタリア独裁を率直に支持する者は、この政策ともっとも鋭く戦わなければならない」、すなわち「ソビエト国家の政策」と「このスターリン政策」にたいして―彼女はこの両方の表現を用いた。
 これらの人々は何らの間違いも何ら非難されるべきことも持ち合わせていない。1週間にわたって彼らに質問することもできようが、彼らはいかなる非難も何の間違いも認めないだろう。先日の日曜日、われわれは最大限の忍耐で何時間も彼らに質問し、最終的にこうした質問と答のすべてに飽きてしまった―なぜなら、これらの人々は自らを真に間違いや失敗を冒さない者として押し出しているからだ・・・
 彼らはコミンテルンの「危機」と「腐敗」、「崩壊」について語っているのだ。
 
 
第26章 ブロックの敗北
 この時期は、どの党会議でもスターリン多数派は表向きはよく組織されていた。いずれの決議でも彼が獲得した得票数はたいへん印象的なものだった。しかしこの多数派は全体として強く融合したものではなかった。均衡を求める党内の3つのグループがスターリン指導のもとで一緒になっていた。モロトフが人格的にもっとも体現していた勃興する党機構、トムスキーが代表する労働組合的翼、そしてブハーリンとルイコフに指導された中間派である。期待されていた「一国社会主義」論の対外政策への転換は達成されておらず、国外でのあらゆる失敗はスターリンの不均一な多数派のなかに遠心的な動揺となって反映した。逆流のたびごとにスターリンは反対派にたいする暴力の拡大で自らの権威を再建した。1926年イギリスにおけるスターリンの実験は政治局内での彼の地位を低め、1927年中国における彼の政策は自らの多数派をまるごと失う間際まで彼を追いやった。
スターリンと蒋介石
ロシアと中国革命家との関係は当初から誠実なものだった。ボルシェビキのクーデターの後すぐに孫逸仙はレーニンに祝電を打った。1917月「中国人民への声明」のなかで、ソビエト政府は中国の領土と富にたいするツァーリズムの請求権をすべて否認した。しかしながら、初期の数年間は、ロシアの内戦でコルチャック軍が直接の交流を18ヵ月にわたって阻止したため、双方の接触はさほどのものではなかった。
1921年、マリン・スニーフリートというドイツの共産主義者が孫逸仙と接触し、若い中国の民族主義組織、国民党について好意的な報告を行った。1923年1月、孫とソビエト外交官アドルフ・ヨッフェは上海で共同声明を発し、この年の間に国民党はソビエトから顧問グループを受け入れたが、なかでも著名だったのがボロディンだった。
中国に赴任している間、マイケル・ボロディンはもっともよく知られたコミンテルンの人物の一人となった。過去も性格もはっきりしないロシア人社会主義者だが、彼は1905年の革命の後、グルーセンベルグという偽名でアメリカにたびたび移住していた。ここで彼は職を転々として不安定な生活を送った。しばらくはベルグという名でシカゴにビジネス・スクールを開いていた。彼は1918年にロシアに戻った。アメリカに住んでいたので、彼は国外問題の専門家とみなされ、ドイツ、トルコ、もしかしたらメキシコにも、さまざまな任務を帯びて派遣された。彼にとって大きなチャンスは中国派遣の時にやってきた。
ボロディンは「党原則の明確な集団、党組織の団結、厳格な党の規律」を主張した。モスクワの助言にもとづく国民党の構成は、始めからロシア・モデルを中国の舞台に適用したものだった。ボロディンは黄甫軍官学校の設立を援助し、ここでドイツ人やロシア人の士官たちが中国人の士官候補生を訓練した。モスクワでは東方労働者のための共産主義大学が設立され、1925年には孫逸仙大学がカール・ラデックを校長として設立された。ここで最盛期には一千人の学生が在籍していた。蒋介石は孫の主席参謀で、モスクワの赤軍学校に出席し、学費無料でロシアの共産主義を学んだ。
1924年、中国の共産主義者はモスクワの指導で国民党に個別入党するよう指示された。後に2人の共産主義者が新しい民族主義政府の閣僚となった。スターリンとブハーリンはドイツにおけるロシアの権威失墜を東方での共産主義者の成功を操作することで補おうとして、あらゆる「原則」を新たな努力に適応させた。理論は注文に応じてつくられ、長ったるくて複雑な教条的宣言として発表された。中国の民族革命における「4階級のブロック」というブハーリンのコンセプトは、全アジアにおける新たなソビエト政策の出発点をなした。外国帝国主義に抑圧された民族主義ブルジョアジー、農民、労働者の統一戦線は、スターリンの国家社会主義のアジア版となるべきものだった。
 早くも1923年にはトロツキーがスターリンの中国政策に反対しはじめた。見当違いの迷宮とスコラ的な反論を通してではあったが、彼はその弱点―コミンテルンは蒋と国民党のなかに忠実な同盟者を見出したという幻想―を攻撃し続けた。トロツキーは、後にジノヴィエフも加わったが、中国の共産主義者たちはこの政策の犠牲になるだろうと党に警告した。しかし、ユーラシア全土をモスクワから支配するというスターリンの夢は容易に粉砕することはできなかった。
1925年7月、党内の共産主義的翼は、当時の圧倒的な大衆運動に依拠して、国民党の支配権を広東でかちとった。蒋は、1925年3月に孫逸仙が死んで後、運動の指導者としての地位を継承していたが、1926年3月になって突然広東を急襲した。彼は何名かの共産主義者の指導者を逮捕し、民族主義政府にたいする陰謀のかどで告発して、その支持者を何人か銃殺した。コミンテルンの紙誌には事件をにおわせるどんな記事も許可されず、中国共産党の政策にはなんらの変更もなされなかった。それどころか、この広東でのエピソードの2ヵ月後、国民党を内部から支配するという政策を党は再確認した。
「(国民党)中央執行委員会特別幹部会が1926年に開かれ、共産党に関して以下の規則を決定した。1、孫逸仙の原則を批判してはならず、これを黙って受け入れなくてはならない。2、共産党は党員の完全なリストを国民党に提出すること。3、共産主義者は上級執行委員会の3分の1以上を占めてはならない。4、党の中央司令部では部局長として勤務することはできない。5、すべての国民党員は、党の許可なしに、党の名において党内問題を討議するいかなる会議も招集することはできない。6、党の上級機関の許可なしに、国民党員は他のいかなる政治組織のメンバーに加わることも、あるいは他の政治活動にかかわることもできない。7、もし共産党が国民党内の自派メンバーに指示を下す時は、共産主義者が多数派ではない合同委員会にまずこれを提出し、その許可を受けること。8、国民党員は辞表を提出する以前に共産党に加入してはならず、いったん辞表すれば国民党への再入党は認められない。9、この規則を破った者は罰せられる」
 1926年12月のコミンテルン執行委員会第7回幹部会議は、国民党からも代議員が出席し、ドイツ左派の粛清に同意した。スターリン自身が「ロシア問題」について報告した。これは彼が反対派と同様に弱いという兆候だった。礼儀正しいと言っていいような調子で、彼は〔反対派〕ブロックが「ソ連邦共産党内の社民的偏向」だという以前からの見解を繰り返した。12月に彼らが妥協したことで、ブロックの指導者たちは姿を現すことも、自らを防衛することもできなくなった。
ジノヴィエフ、カーメネフ、トロツキーは、第15回大会が彼らに投げつけた社民的偏向という罪状に抗議して彼らの反党的な見解を擁護した。カーメネフは、国際プロレタリアートの代表を前にして、わが党を民族主義的改良主義だと非難するところまで行った。
 幹部会は〔反対派〕ブロックとその国際的支援にたいする闘争を強調した。フランスでは、ボリス・スバーリンが追放され、アルフレッド・ロスメルとピエール・モナッテが反革命分子だと規定された。イタリアの左翼共産主義者アマデオ・ボルディガにたいする闘争が続けられた。
 中国共産党は1927年4月の第5回大会では、2年前のわずか1000人から60万人を数えるにいたった。4月5日の演説でスターリンは蒋介石をすぐれた革命的闘士として称えた。2人はお互いに肖像画を贈呈した。1週間後、蒋介石は急転回を行い、国民党から共産主義者を追放し始めた。上海の労働者数万人が虐殺された。その時ですら、共産党の政策は同じ―国民党内で働く―であり続けた。スターリンは蒋とおおっぴらにたたかえば彼に勝利を差し出すことになる、と断言した。5月21−22日、今度はウーハンで虐殺が繰り返された。
この虐殺は5月21日に始まった。農民たちはチャンサに向けてまずます多くの分遣隊を編成し始めた。彼らが大した努力もなく都市を掌握するだろうことは明らかだった。しかしこの時点で中国共産党中央委員会から一通の手紙が届き、そのなかで陳独秀は公然たる紛争はおそらく避けるべきだと論じて、ウーハンの問題に移った。この手紙の基調に立って、地方委員会が農民分遣隊にこれ以上前進せず撤退するように命令を伝えた。しかしこの指令は2つの部隊に届けることができなかった。2つの農民部隊がウーハンに到着し、兵士たちに全滅させられた。
 この事件がモスクワにもたらした影響は数語の形容詞で表現することは不可能だ。スターリンとブハーリンは自分たちの中国政策の成功について自画自賛の演説をしている真っ最中だった。スターリンの論文は大急ぎで回収され、ブハーリンの本は破棄されくてはならなかった。1927年7月の幹部会でスターリニストの中央委員会が採択した決議は、どんなに白く塗りたくっても彼らの不安を隠すことはできなかった。
コミンテルンの正しい戦術にも関わらず、中国革命が重大な敗北を被ったが、これはまず何よりも国内における階級的力関係によって、さらには国際的観点から、説明しうる・・・他方、中国共産党は体系的に共産主義インターナショナルの指令を拒否したが、その指導部も責任を共有することを認める必要がある。
 中国革命の現在の時期は、重大な敗北と同時に、力の根底的な再結集という点に特徴があり、そこでは労働者と農民と都市貧民との連合がすべての支配階級と帝国主義にたいして組織されつつある。この意味で、革命はより高い段階、直接的な労農独裁のための闘争段階へと移行しつつある。これまでの経験は、明らかにブルジョアジーがブルジョア民主主義革命の課題を遂行する能力をもたないことを示している。
 ソビエト・国民党同盟の間中、イギリスとロシアの関係は悪化していた。1927年の始めまでに2カ国の交易はほとんど中断していた。イギリスの報道ではソビエト連邦との外交関係を断絶せよというキャンペーンが行われ、その一方でイギリス大使館はポーランド、ルーマニアとの協力関係を強化した。2月23日、イギリスはロシアに警告の覚書を送った。5月12日、ロンドンにあるロシアの貿易会社、有限会社アルコスの事務所が200人の警官によって襲撃された。2週間後、ボールドウィン首相は5点にわたってロシアにたいする抗議を数え上げた。(1)ソビエト諜報員がイギリスの軍事機密を入手しようとした(2)極秘文書が紛失し、これはソビエト諜報員が持ち出した疑いがある(3)ソビエト貿易事務所で極秘文書類が発見され、事務所は大英帝国と植民地の共産党の仲介役として行動していたことが判明した(4)ソビエト代理行使はイギリス国内で英国の中国政策に反対する政治宣伝を支援した(5)中国における英国の利益に反対するこの宣伝で、ソビエト政府は1921年3月16日に締結された英ロ貿易協定の諸項目に違反した。
 1927年5月末、大英帝国はソビエト・ロシアとの外交関係を断絶した。一般的に、労働陣営における即座の反応は断絶に反対するものだった。しかし7月の始めには、全国鉄道労働組合の年次大会でJ・H・トーマスが、イギリス労働組合運動という国内問題にトムスキーが介入したといって非難した。
 数日後、ワルシャワのソビエト公使ピーター・ボイコフが暗殺された。彼はツァーとその家族を殺害したグループの一人だと言われており、ポーランド政府の強い反対を押し切っての赴任だった。今度はロシアの帝政派が彼を殺したのだった。
 世界中で、英ロ間の緊張が感じられた。例えばフランスでは、ジャック・ドリオとその他9名がフランス植民地における破壊活動の宣伝を理由に投獄された。国軍学校が所在するサン・シールで2人の地方議員がロシアに軍事機密を売り渡したと告発された。6月12日、鉄道労組委員長ピエール・セマルドは兵士に反乱をそそのかしたとして告訴され、投獄された。党書記局員クレメットはロシアのスパイだと非難された。パリはモスクワにたいして職員を帰国させるよう半ば公式に警告した。
 こうしてスターリンの中国政策が突如崩壊すると同時に、英ロ間の高まる緊張に悩まされ、さらに全ヨーロッパで反共運動が一新されたことに追い打ちされて、ロシアは再び危険なほどに孤立した。スターリンの社会主義の祖国は、ほんの数ヶ月前まではアメリカのヘゲモニーに反対してヨーロッパの労働組合を指導するはずで、数日前には蒋介石の中国と固く同盟していたのに、今や敵対する世界のなかで一人ぼっちだった。ロシアは、全ヨーロッパでただ一人ドイツという弱くて不安定な友人を抱えており、このドイツも片足を敵陣営に突っ込んでいるのだった。ドイツはソビエト・ロシアへの信用保証を大幅に拡大した。その一方で7月27日にベルリン警察は700人の共産主義者を逮捕し、警察署襲撃と物損の罪で告発した。
 ジョージ・V・チチェリンがベルリンに急派された。彼はマルクス首相およびブロックドルフ・ランツァウと会談した。7月7日、国際連盟の会合に出発する前夜、彼はドイツ外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンに話しかけた。後にジェノバでシュトレーゼマンはシャンバーリンと一緒に国際情勢を再検討するが、ドイツが国連加盟に消極的であるということが英ロ間の紛争勃発を予防するうえで重要な要素なのだった。
攻撃すべきか否か
 ロシアでは、スターリンの外交政策は彼の頭上に倒壊しており、反対派は日の出の勢いだった。資本主義世界との平和的協力の時代を指導する男としてスターリンを見なしていた党内上位層は、ロシアと彼ら自身が断崖絶壁に立っていることを見出した。この時期に「典型的な共産主義役人」と自らを表現していたアレクサンダー・バルミンが、国内の雰囲気が逆転したことを詳述している。
当時は誰もスターリンの個人独裁が勃興するのを予見しなかった。われわれの一般的ムードは一種の健全な楽観主義だった。われわれは自分じしんと将来を確信していた。われわれは、ロシア工業の再建を妨害する戦争がやってこなければ、わが社会主義国家は存続しうると信じていた・・・永続革命はわれわれにとって危険な理論に思えた・・・私は中央委員会の諸決定をつねに支持してきた一人だ・・・共産主義インターナショナルとソビエト顧問官が督励する中国革命が勝利につぐ勝利を勝ちとった時、政治的熱情はその頂点に達した・・・スターリンは・・・蒋介石が軍事クーデターを準備しているというあらゆる方面からの警告に耳を塞ぎ続けた・・・これら戦術の破局的影響はすぐに明らかとなった・・・スターリンの権威は鋭く傷つけられた。反対派はその努力を倍加した。
 スターリンの外交政策は崩壊した。彼の機構はよろめき、GPUの増大するテロだけがその崩壊を防いでいた。5月にイギリスとの外交関係が断絶したことと、7月7日のボイコフ暗殺が、反対派の迫害に最大限利用された。5月20日、5人の「ポーランド人スパイと反革命」が処刑された。6月6日に5人、7月13日さらに10人がオデッサで銃殺された。6月20日モスクワでは20人が「反革命活動とイギリス政府との関与」のために銃殺された。
 とりわけレニングラードでは、危機的な国際情勢が反対派一掃の口実とされた。6月7日GPUは、不特定多数のレニングラードの労働者が当局に脅迫状を送りつけたとして告発され、裁判抜きに銃殺されたと発表した。いかに反対派が強い地域であっても、GPUはロシアの「反革命」と外国の「スパイ」の間の混合物を見つけ出すのに巧みだった。例えばクロンシュタットでは、6月17日に元白軍司令官クレピコフが大英帝国のスパイだとして死刑を言い渡された。数週間後、彼の妻も共犯だとされた。6月5日GPUはモスクワのGPU本部を爆破する陰謀を都合よく摘発した。逃亡を試みた3人の共犯者はその場で射殺され、こうして捜査活動は不可能となった。
 政治局は、それが本物だろうと「客観的に」だろうと、国家警察の本部爆破というこの企てとその他すべての「イギリス帝国主義のスパイ」の活動を脚色した。敵対的な資本主義世界のなかにあって、社会主義祖国の救済は反革命のなかにあった。スターリンは〔反対派〕ブロックの銃殺を意図しているといううわさが流れ始めた。8月17日、政治局の緊急指示を受けてトロツキーはこの噂を否定した。中央委員会のある会合から次の会合のあいだ、スターリンは反対は指導者たちを追放する機会を模索していた。彼は自らの計画を翌年の厳しい闘争の後になって完了することが可能となったが、闘争のなかでは彼も数多くの反撃を受けた。
 9月7日、TUC〔英労働組合会議〕通常総務会は、イギリスの労組がソビエト労組との結びつきを断ち切るよう勧告した。その後、この勧告は受け入れられて英ロ貿易組合統一委員会が解散された。わずかなセレモニーでもってロシア労組の代表たちはとうとう絶縁された。なぜなら彼らはイギリス労働運動の国内問題に関心があったからだ。
 イギリスと中国でスターリンの政策が壊滅的に敗北することで高まった〔反対派〕ブロックの人気はただちに行動に移るべきかどうかという問題を提出した。反対派のなかには、戦争の脅威の下では撤退を、必要なら降伏すべきだ、と提言する者もいた。国外から干渉される新たな危機が増大する前に、外国の軍隊は統一ロシアと相対しなくてはならない、というのが主要な考慮だった。
 トロツキーはこの敗北主義的ムードにたいして、彼が言うところのクレメンソー理論にもとづいて反対した。1914年、ドイツ軍がパリに迫った時、クレメンソーはフランス内閣の破滅的政策に反対してもっとも断固たる行動を指導するのをためらわなかった。この大胆不敵な戦術によって、彼は政府を打倒し、動揺するフランス人民を新政府の下に結集し、潮流を変え、フランスを勝利に導いた。トロツキーの観点では、戦争危機の切迫だけが反対派ブロックの成功をより可能とするだけでなく、より切実なものとしているが、それは国がスターリンにしたがって戦争に突入しないだろうからである。帝国主義の干渉とたたかう必要は、それが望まれもしたのだが、10月の日々の精神を呼び起こすだろう。
 ロシアではトロツキーとクレメンソーとの相似が反スターリン主義蜂起の符号だと受け止められた。スターリンはカーメネフをローマ大使に派遣した。彼のモスクワ出発は、駅前の抗議デモで際立った。
 イギリスが外交関係を断絶した直後の6月、コミンテルン執行委員会の幹部会議が開かれた。スターリンはロシアの軍事指導者として振舞った。チュニックとウェリントンブーツといういつもの簡素ないでたちで、彼はコミンテルン代議員に向かって、党と軍の最高司令官が一体化した自らの役割を強調した。戦争と中国の破局の危機が論じられた。「ロシア問題」はまたもやタブーで、セント・アンドリュース・ホールの廊下でひそひそ話すことができるだけだった。
 スターリンの教唆によって、ロシア代表はトロツキーとブヨ・ブヨヴィッチを執行委員会から排除すべきだと提起した。4日間の討議で、イタリア代表(パルミロ・エルコリ・トリアッティを含む)、フランスのアルバート・トレイン、チェコスロバキアのヴィクター・スターン、そしてベラ・クンが動議に反対した。スターリンをもっとも熱心に支持したのがドイツ党の新しい指導者エルンスト・テールマンだった。ジノヴィエフはコミンテルン議長の地位から追われていたが、戸口に立った武装衛兵によって会議場に入ることを阻止された。ヘイモは、彼が座るだけの十分な余地がない、と代議員に告げた。しかしこの安っぽい策略は、アーサー・エーヴェルトによってすら反対された。彼は国外に悪い印象を与えることを恐れたのだった。中国での敗北はあまりにも決定的で、彼らの政策の結果があまりにも明瞭だったので、スターリンとブハーリンは代議員たちが反対派の攻撃について耳にすることすら恐れた。彼がジノヴィエフを侮辱しようとしたこの小事件は典型的なスターリンのジェスチャーで、損失なしに撤退できる攻撃によって、彼はもっと重大な問題でどこまで踏み込めるかを推し量っているのだった。
 1927年7月の中央執行委員会で、トロツキーとジノヴィエフは明らかに希望なく打ち負かされたが、合間の数ヶ月をただ生き延びただけではないことを示した。スターリンが中国で敗北したことで、反対派ブロックはより大きな権威を得た。スターリンはもちろん彼の数的優勢を保っていた―数的逆転はクーデターの成功を意味しただろう―が、彼の分派は明らかに動揺していた。スターリン多数派が採択した決議そのものが、彼の権力の同様を示していた。
最近、ソ連邦の国際的な位置と中国革命の部分的敗北における特別な困難と連動して、反対派はわれわれの国際政策(中国とイギリス)に即して党への攻撃を集中した。
中央委員会のテルミドール的退行に関する声明、保守的民族主義政策、党のクラーク・ウストリャロフ方針、「もっとも危険なのは党の体制」であって戦争の脅威ではないという宣言―これらの声明すべてが、国際プロレタリアートのソ連防衛の意志を弱めているが、ECCI幹部会は、「戦争危機に際して・・・彼らが労働者から逃亡するのを隠蔽する諸方策」だと特徴付けた。
スターリンはトロツキー、ジノヴィエフから分派活動を自制するという新たな言質を引き出したが、この声明は漠然としており、1926年の時よりも分裂的な影響は少なかった。ロシア党やコミンテルンの誰も、危機の背景を無視してまでこれを額面通りには受け取らなかった。
ロシア党の危機は頂点に達しつつあった。いずれかの分派が決定的な勝利をすぐにかちとるだろうことは間違いなかった。わずか一ヵ月後、7月の幹事会では、反対派ブロックの指導者たちは第15回党大会に向けて自身たちの声明を発した。そのなかで彼らは、ポポフの言葉によれば「コミンテルンを解散し、中国革命を裏切り、ツァーリズムの負債を承認し、国外貿易の独占を廃止し、クラークに好意的な地方政策を採用することを意図しており、同じく傲慢なナンセンス」によって政治局を非難した。決定的な一歩を踏み出すなかで、反対派ブロックは反対派党細胞をとりまく支援組織として非党員労働者を組織せよ、という指令を発した。軍内の組織的関係は強められ、コムソモールとの連絡役として特殊グループが配置された。
危機の増大に反撃するスターリンの主要な道具の一つが中央統制委員会で、これはこの時期、スターリンの親密な友人であるG・K(「セルゴ」)・オルジョニキッゼが委員長を務めていた。党から追放されるか、追放の威嚇がなされる過程は、単純な肉体的拷問よりもはるかに繊細だった。平均して3日間の「討論」で、中央統制委員会は精神的テロと肉体的テロの奇妙な混合物を用いた。国外配属という昇進の申し出がシベリア追放か処刑の恫喝に取って代わった。いくつかの事例では、例えばウラジミール・スミルノフの場合、討論は8日以上も続いた。この長期にわたる尋問で精神的に弱い者の抵抗は崩壊した。過剰に手の込んだ党の教条、愛国主義への訴えかけ、もし彼らが党内の身分を失えば子供たちは教育を奪われるだろうこと、そして何よりも、他の反対派について全部打ち明けろという恒常的圧力。
30年代の見世物裁判に向けたこの懺悔のパレード、この舞台稽古は、スターリンの統制委員会が反対派の一握りの分派を間引く機会を与えた。除名された多くの者が復党を認められた。
 このやり方で〔とオルジョニキッゼは報告した〕われわれは党から除名した者の90%を復党させた。一方で、われわれは反対派とたたかい、党から追放したが、他方では、言うなれば、中央統制委員会は彼らを全員復党させたのである。これはいくつかの地方で生じたことで、例えばトランスコーカシアでは反対派のほぼ全員を復党させた。
 反対派の見解では、この相対的に寛大な措置はいい兆候で、彼らの党内における影響力を反映しているというのだった。この再承認は別の側面も持っていた。自由な党員という見せかけで動き回ることが許されることで、反対派および彼らの接点すべてがGPUの網に引っかかるのだった。
 反対派ブロックの支持者たちがこうして中央統制委員会の枠に引き寄せられる一方で、スターリンは大衆操作を強めた。革命前にはたいてい聖像の写真を飾っていた家庭の祭壇はその性質を変えた。聖像の写真はレーニンとスターリンの写真に置き換えられたが、崇拝の念だけは持ち続けるように奨励された。工場内にあったこのいわゆる「赤い祭壇」の数は、この時期7000から42000へと増加した。さまざまな軍の付属組織が創設された。Osoaviakhim(化学戦と空中戦の研究グループ)、ライフルクラブなどなど。映画やラジオによる宣伝も増えた。共産主義青年団はモスクワの大通りで祭りやパレードを組織した。婦人団体とピオニールはもっと注意を引きつけた。学童には最新の党の方針が注入された。
 この最後の点は個人的な逸話で語ることができる。この時期のモスクワ滞在中、私はGLシュクロフスキーと仲が良かった。彼は亡命中レーニンと親しくしており、1923年にはハンブルグのロシア人領事で、ジノヴィエフとドイツ左派の献身的な友人だった。広い経験をもった老人で、ものごとは悪い状態からより悪い状態に悪化しているという単純なコメントでもって複雑な教条的議論を払いのけた。中央統制委員会事務所の薬剤師として、彼は党のGPU化について鋭い見識があった。彼にとって党の全綱領は、GPUの国内テロを破壊するところから始めない限り、単なる冗漫でしかなかった。シュコルフスキーは西ヨーロッパで数年間を過ごし、ドイツ語、フランス語、英語を話した。とても誠実な人格で、ボルシェビキ革命家の最良のタイプだった。私は3部屋ほどのささやかな彼のアパートによく彼を訪ねたが、彼はそこで妻および3人の10代の娘たちと暮らしていた。ある日、いちばん若い12歳の娘が、ルート・フィッシャーの労働組合主義的偏向について学校で教わり、すっかり当惑して家に帰ってきた。彼女はその女性のことを、よく父と夕食のテーブルを一緒にする人だ、と思っていた。彼女は私にいくつか質問したが、もちろん彼女はいったい何が進行しているのか理解はできなかった。モスクワ滞在の最後の数週間、私はシュコルフスキー家に楽しく訪問したり、シルバーウッドにある彼の別荘で週末を過ごすのを断念せざるをえなかった。われわれは公園のなかでよく会議を開いていたのだった。
 新たな大衆操作の要素は国際的な領域でも発展した。ソビエト・ロシアに旅する労働者代表は特に重要な宣伝の道具となった。1927年11月9日、「ソ連の友」モスクワ世界大会が開かれた。47カ国から947名の代議員が参加し、173人がドイツ、146人がフランス、127人がイギリスからだった。そのうち3分の1が共産主義者だった。11月13日、スターリンは、ドイツ、フランスオーストリア、チェコスロバキア、ベルギー、フィンランド、デンマーク、エストニア、中国、ラテン・アメリカからやってきた80人の労働者代議員に6時間ものインタビューを許可した。
第4インターナショナル?
国際分野では、反対派ブロックは左翼共産主義者の国際大会をベルリンで1927年の暮れに開く計画をしていた。ロシア国内の反対派クーデターはこうして国際的な支援を受けるだろう。新しい指導部は単に国内だけでなく、国際共産主義者として権力を握ることになろう。とりわけジノヴィエフはこの大会準備に興味を示した。暗号を用い、大使館の通信員を通じて、彼はこのアイデアをイスタンブールのサハロフに伝えた。
 ジノヴィエフとトロツキーに対する国際的な支援という観点から見ると、1926-1927年当時はたいへんいい状況だと思えた。最大の困難はロシア国内の反対派と連絡をとることで、さまざまなソビエト機関職員がGPUの支配下から資材を持ち出すことで自らの仕事と自由とを危険にさらしていた。チュロフはベルリン貿易事務所で働いており、とても役に立ったし、カプリンスキーやイサイェフもそうだった。ペレヴェルゼフは鉄道技師としてジェノバ委員会に派遣され、全ヨーロッパの駅で使えるパスを持っていた。ベルリンのわれわれの下に、あらゆるところの反対派ブロック支持者たちから資材が送られた―ローマ、パリ、バルカン大使館、イギリス、アメリカ。われわれは特に中国のトロツキストと頻繁に連絡をとっていた。
 スターリンによって外国へ派遣されたほとんどの反対派がベルリンを通過し、われわれは彼ら全員と会って反対派ブロックの諸問題について邪魔されることなく討議した。例えば私はコロンタイがノルウェーに向かう途中で彼女と会った。彼女の弱くて情動的な性格にわれわれは驚かされたが、彼女はただ反対派の目的に漠然とした共感を持つことで反対派と結びついていたにすぎなかった。われわれは彼女が立場を変えてスターリンを支持した時にも驚かなかった。1927年の始め、トロツキーの親友ソルンチェフがベルリンに赴任してきた。すばらしい青年だった彼は熱烈なトロツキストだったが、彼との白熱した幾多の討論のなかで、例えば永続革命について議論した際、われわれは彼とジノヴィエフとの間にはカプリンスキーとペレヴェルツェフの間にあるぐらい重要な違いがあること認識した。
 1927年の夏の終わり頃、カーメネフがベルリンを経由してローマに向かった時、われわれはベルリン大会についての詳細なプランを検討した。次の月われわれはいろんな国で反対派グループと接触した―フランスのアルベルト・トレイン。チェコスロバキアではAlois Neurathの周囲にいたズデーデン・ドイツ人のグループと青年指導者カール・ミシャレッツの周辺グループ。オーストリアではジョセフ・フライが指導していたグループ。大会でのわれわれの綱領は一部はロシアで生じたことがらに依拠していた。もし反対派ブロックが権力を再奪取すれば、その時は左翼共産主義者は統一コミンテルンに復帰するだろう。もしそうでなければ、ロシア国内で第2党が不可能だとしても、われわれは左翼共産主義者インターナショナルをロシア国内の地下活動を継続する拠点として形成するつもりだった。
 こうしたさまざまな接触を通して、われわれはいわゆる反対派ブロック内部のいわゆる極左反対派の意見を学んだが、そのなかには例えばサファロフやムラチコフスキーや、いろんなトロツキスト士官がいた。彼らが考えるところでは、スターリンは不人気で、彼が反対派に抗して権力を維持できるのはただテロに依拠するからで、その行使をためらうことはない。スターリン・グループが権力にとどまっている限り、反対派への潜在的な支持は自ら姿を現そうとはしないだろう。そのため彼らは、街頭デモや非合法集会ではなく、モスクワとレニングラードその他いくつかのキーポイントで合わせて数百人の指導的人物を一斉逮捕し、暫定政治局を宣言するよう勧告した。その時初めて、党がGPUのテロの恐怖から解放された後に通常の党大会が完全に民主的内実を持つのであり、こうした状況の下で開かれた大会で反対派は多数派に復権するだろう、とこのグループは考えた。
 マスローと私はこの見解を受け入れなかったが、反対派の成功をただ一度の行動にかけることを意味したからだった。もしこれが失敗すれば、スターリンは彼の敵を根絶するのをためらわないだろう。われわれはむしろ、ロシアで全体主義が台頭しつつあるこの時期、ヨーロッパ危機が行動にもっとも適した時期を供するまでの間は、反対派は深く潜行しなくてはならず、沈黙の抵抗政策にしたがうべきであると考えた。わがドイツの同志たちはさまざまなニュアンスを異にしていたが、彼らの間の支配的な雰囲気は「―か、さもなくば―」というものだった。ドイツで独立した共産党が建設されれば、その中心的派閥はロシア反対派を支えるだけでなくドイツの労働者に重要な役割を演じるだろう。さもなければ、ロシア反対派指導部の度重なる「降伏主義」の見地とドイツにおけるその影響からすると、分派的相違をめぐる闘争を放棄し、増大するナチスの危険性に反対してたたかうために、もとある共産党に復帰すべきだというのだった。何人かはプレ・ヒトラーのドイツに急激に広がる数多くの小さな集団の一つを防衛することに自らの人生を奉げる道を歩み、またある者はスターリンのコミンテルンを建設するという別の道を歩んだ。当時ドイツまたは西ヨーロッパでは一般的に、ロシアの反対派が直面している困難を十分に評価している者はいなかった。GPUのテロに直面した時、自由民主主義の標準で自らの行動を推し量る傾向が一般的だった。
 ロシアでは反対派は地下活動を強化した。ムラチコフスキーの指示で、彼らは小さな地下印刷工場を準備した。いくつかのパンフレットはGPUの施設で印刷された。反対派は自らの成功に勇気付けられ、この危険な同盟と挑発との間の線上を歩こうと試みた。スターリン体制の制約のないテロはテロ機構それ自身のなかで抵抗に遭遇した。1937年に2人のGPU要員、イグナト・ライスとワルター・クリヴィツキーが海外で逃亡したが、これはロシアのテロ機構内部の打ち続く緊張状態の証拠を遅ればせながら提供した。
 新たな「合法性への突破口」が計画された。83人の反対派の指導的メンバーが署名した声明が党内とコミンテルンで回覧され、GPUのテロにも関わらず、これは一定の支持を得た。例えばハリコフでは180人の党員がこれに賛同した。「これはおそらく、あらゆる反対は声明の中でも、もっとも間違っており、偽善的なものである」とスターリンは書いた。
その声明で彼らは党の団結に反対し、その分裂に反対しないと告白したが、現実には彼らは党の団結を最大限破壊し、分裂のために動いており、あらゆる反ソ的・反革命的党の形成を伴う非合法の反レーニン主義党をすでに形成している。
 その声明で彼らはいずれも工業に偏った政策に賛成すると告白し、中央執行委員会が十分な速度で工業化を進めていないと非難してさえいるが、現実にはソ連邦における社会主義が勝利したという党の決議にけちをつけているにすぎない。
 その声明で、彼らは農業集団化運動に賛成すると告白し、中央執行委員会が集団化を十分な速さで進めていないと非難してさえいるが、現実には社会主義機構のなかで農民が働くように勧める政策をあざけっている・・・
 83人声明はトロツキーとジノヴィエフが署名しているだけだった。労働者反対派は、反対派ブロックと連絡を維持していたが、トロツキーやジノヴィエフが闘争から撤退してもスターリン主義政治局にたいする反対運動を独立して続けることができるよう、独自の組織を建設していた。数ヶ月前、民主集権派グループは15か条声明を発し、3点に問題を絞り込んでいた。(1)国家党は腐敗を極め、改良の見込みはない。党内多数派を獲得する闘い、党内で合法性を獲得するための闘いは不毛であり、反スターリン主義カードルをGPUの罠に追いやり、労働者を反対派ブロックから遠ざける意味のない抵抗戦術である。(2)国家党の腐敗は10月革命の終焉を表しており、革命はその双肩に機構が台頭することによって裏切られた。(3)労働者はロシアで実際に権力についたことはないが、10月革命は労働者の社会を建設しうる基盤を提供した。この基盤はスターリン反革命によって破壊されており、労働者は一枚岩の国家に反対する階級の位置へと投げ戻されている。彼らは敵対的な国家権力に反対して抵抗を組織せねばならない。国家権力のための闘争―これは今の時期、単なる抽象的・理論的関心だとみなされるに違いない―ではなく、スターリン主義国家のさらなる侵害から労働者の権利を防衛するために、真の労働者党を建設しなければならない。
 12月に開かれる第15回党大会の準備にあたり、反対派は83人声明を擁護するため党集会で発言しようと試みた。
 党大会は12月に計画され、その準備が熱心に行われた。これはまず中央執行委員幹部会の報告集会で始まった。これら集会への参加は個人的勧誘によってのみ許可された。明確に反対派として知られた同志たちは参加できなかった。もしこうした予防策にも関わらず反対派が潜り込んだ場合に備え、機構の階級脱落分子からなる防衛隊が、反対派の演説を大音声と騒然とした介入で妨害するために配置された。
 GPUの支持の下、これらの衝突部隊はベルを鳴らし、叫び、取っ組み合いを始めた。そこには、これ以上反対派の反革命的議論を聞くことに耐えられなくなった同志たちの怒りの感情の爆発があった。彼らは立ち上がり、ボルシェビキ的熱意でもって反対派の文書をビリビリに破いた。いくつかの集会では儀式的に焼かれることもあった。反対派の発言者が壇上に上がると照明が消されたことも何度かあった。スターリンが描いたように、「党員は反対派に辛らつな肘鉄を食らわせ、ある場所では単に彼らを集会から追い出した」。
 一方では、オルジョニキッゼが報告した「90%の復党」にも関わらず、追放と懲戒が続けられた。「9月12日から13日にかけての夜間、GPUは一連の襲撃を行い、反対派共産主義者と非党員労働者の家宅捜査を行った」。反対派書記の家は念入りに捜索された。GPUは当時のロシアできわめて希少だったタイプライターを必ず押収した。
スターリンの主要な戦術的方策は膨大な混合物をでっち上げるやり方で、反対派ブロックのメンバーがイギリスのスパイ、白衛軍の地下メンバー、ワルシャワのヴォルコフ暗殺犯と関与しているというのだった。例えば、トロツキーは前工場主の息子で非党員のシェルバコフと連絡をとっていると非難された。シェルバコフはウランゲルの旧士官にガリ版印刷機を所望し、ツヴェルスコイ某が同じ士官に軍事クーデターが近いと話しかけていた。こんなささいなことに始まって、絵に書いたような詳細さで新たな性格と構想を膨らませ、反対派のあらゆる運動が陰謀だと毒々しく描かれた。彼らの存在そのものが社会主義国家の危険となった。もし彼らが誰かと会えば、これは共謀である。もし彼らが何かをすれば、社会主義国家の転覆を意図している。もし彼らが何もしなければ、単によりよい機会を窺っているにすぎない。トロツキーやジノヴィエフの名前を口にしただけで反対派活動に仕立て上げられる状況が始まったのはまさにこの時期だった。
党支部での討論から実際に切断されて、反対派は独自に大会に向けた秘密集会を組織した。10月革命の指導部が2部屋のアパートで演説し、部屋を提供した労働者はこの敵対活動によってすべてを危険にさらした。200から220人が床に立ったり座ったりして聞き入った。GPUが非合法集会を解散させるためにやってきた時、彼らはGPU職員も一緒に参加して討論を聞くよう誘った。結局、トロツキーの推計によると、モスクワとレニングラードで約2万人の人々がこうした集会に参加した。自らの力をテストするため、反対派はモスクワ技術学校を掌握し、トロツキーとカーメネフが2千人の聴衆に向かって妨害なしに2時間話しかけた。スターリンは集会を解散させる十分な警察力をもっていたが、彼はあえて対決はしなかった。しかしモスクワ郊外では反対派ブロックはより大きな非合法集会を継続することはできなかった。
 スターリンの不安は10月の中央委員幹部会の前に行われた発言にも示されている。
スターリン:われわれは、反対派が軍事的陰謀を組織しているといって彼らを過去に非難したり、今現在非難したことがあるだろうか? もちろんない。反対派がこうした陰謀に参加しているといって彼らを過去に非難したり、今現在非難したことがあるだろうか?もちろんない。
ムラロフ:前回の会議で、あなたはまさにそういう非難を行った。
スターリン:同志ムラロフ、あなたは間違っている。われわれは非合法印刷工場についてと、非党員知識人がこの印刷工場を関係していることについて、確認したのだ。あなたはこれらの文書のなかで、反対派が軍事的陰謀に参加しているという一言一句も見出すことはできないだろう。これらの文書のなかで、中央委員会と中央統制委員会は反対派がこの非合法印刷工場を組織するために非党員ブルジョア知識人と連携した、知識人の何人かは白衛軍と協力しており、彼らは軍事的陰謀をめぐらせている、と主張しただけである。
しかし、この同じ10月幹事会で、トロツキーとジノヴィエフが中央委員会から解任された。
ボルシェヴィキ革命の10周年記念日前夜、全国いたるところで大衆デモが組織された。党指導部は全員レニングラードにいて、そこで中央委員幹部会に出席しており、タウリダ宮殿の前で祝賀が行われた。ジノヴィエフとトロツキーはその時のために整列したトラックの中から慎重に最後尾を選び、こうして列の先頭にいる中央委員会のグループと彼らが関係ないことを示した。彼らの支持者は最後尾のトラック周辺に集まり、2人の反対派指導者に嵐のような大喝采を送った。彼らは意気揚々とデモから引き上げた。
スターリンは11月7日の記念日を、国内の不安をなだめる戦術で刻印した。中央委員会の政綱で、7時間労働を筆頭に労働者向けの一連の方策が、社会主義ロシアの法として厳かに定められた。貧農の免税が約束され、彼らの状況を改善するために国家的援助が差し出された。10月1日、同様の策略として、少数の被告人に大赦が与えられた。この政治的転回、「左派への転回、マルクス主義とレーニン主義への転回」というのがその綱領として採択されたのだが、反対派を鎮めるうえで決定的な影響をもたらした。
レニングラードで行われた10月27日の集会で反対派支持者が示した反応は、反対派ブロックの指導者をその計画の頂点に押し上げた。通常、ロシア国外の共産主義者の戦術にしたがえば、トロツキーとジノヴィエフはモスクワとレニングラードで反中央委の街頭デモンストレーションを組織すべきだった。スターリンの政策への不満はあまりにも蔓延していたので、この2つの集会が他の工業中心地へと広がり、党機構が屈服することが期待された。「非公然の小集会から公然たる街頭デモへ!」ポスターが準備され、集団が組織され、発言者が配置された。
ベルリンでは、マスローと私がヘルツブルグ〔原注:レニングラード党の組織者。彼はソビエト貿易事務所の目立たないポストについていたが、彼の全ての時間を反対派活動に費やしていた。1935-1937年の裁判で銃殺された〕からこの計画を聞かされた時、彼は有頂天の楽天主義に染まっていたが、われわれはジノヴィエフに、われわれの意見ではこの計画は成功しないし、失敗した場合、スターリンの報復は再起を許さないだろうと伝言を託した。当時われわれはこの計画が早熟で危険だと考えたが、現在私は、ヘルツブルグと興奮を共有する他のロシア人たちが、スターリンの数的優位と国内での彼への実質的な支持とがどれほど乖離しているか、われわれよりもずっと知っていたと認識している。国家党の孤立は、党と圧倒的大衆との関係が崩壊するのが目に見える地点にまで達していた。例えその目的をすぐに達成できないにせよ、デモンストレーションはスターリンを脅しつけ、弱め、彼の計画を延期させただろう。
記念日の一週間前、反対派カードルにさらなる大量逮捕が襲い掛かった。むきだしのテロが支配した。チュロフは突然、ベルリン貿易事務所から呼び出され、モスクワ近郊で死体となって発見された。デモが計画された数日前、中央統制委員会はクルプスカヤ、ソコリニコフ、ザルツキーを含む重要な反対派メンバーの何人かから降伏の声明を引き出した。
トロツキーがモスクワの街頭に姿を現した時、彼は腐ったリンゴを叩きつけられた。彼がどこに行っても乱闘が始まり、デモンストレーションは反乱へと変わった。「一連の偶発事件」に取り巻かれ、彼は大衆の前に二度と姿を現すことができなくなった。「ある警官が警告を与えようとして私の自動車に発砲した」。レニングラードではGPUはもっと効果的だった。反乱はあまりにもうまく組織され、警官はジノヴィエフとラデックが街頭へ出る前に保護拘束する必要があると判断した。彼らはデモの間中拘束され、武装警官の大部隊がその建物の前面に配置された。
こうして「合法性への突破口」は破局に終わった。「11月7日街頭に出ることで、反対派はさらに徹底した絶滅判決を自らに課した。死刑証明書に自ら署名した」とポポフは書いた。
4日後、反対派にたいする新たな最後通牒が発せられた。党の方針はあらゆる党員が守らねばならない。党外でも党内でも討論してはならない。非合法の反対派集会は再度禁止された。GPUがこうして反対派指導部と彼らの声に耳を貸すかもしれないすべての人々との間に鉄の壁を打ち立てる一方、外務省での仕事をあてがわれたコロンタイは「大衆は反対派を信じていない」というタイトルでプラウダ論文を書いた。
11月14日、デモ計画からちょうど一週間後、中央委員会と中央統制委員会の合同会議がトロツキーとジノヴィエフの党からの追放を決定した。
2日後、トロツキーの親友であるヨッフェが自殺した。最高指導部が追放されると、全国の支持者たちは極限的テロにさらされた。被告人の犯罪ではなく、彼の行動―反対派組織における彼の重要性、仲間うちでの彼の人気、彼の知的道徳的資質こそが決定要因だった。強い性格はへし折らねばならず、高い知的能力をもった人格はあらゆる情報から孤立させられ、人気のある人物はその環境から移転させられるのだった。こうして、単なる降格から死刑判決に至るさまざまな方策によって、GPUはリアリスティックに反対派残党をばらばらに解体した。「全面的に」降伏した指導者たちには、いつも新たな人生を再出発する可能性があった―ほんの短い間だったが。
トロツキー中央アジアに送られる
 反対派は粉砕され、その指導部は党から追放され、中間指導部の多くは刑務所に入れられるか処刑され、ランクアンドファイルはおびえて沈黙した。さらに、第15回党大会代議員は第14回当時よりも慎重に選抜された。たとえ小さな問題であっても反対派の見解に共感を示す者は処分された。スターリン政策への口先だけの同意では不十分だった。代議員はその行動をもとに選ばれた・・・大会は完全なやらせで、これがスターリンに圧倒的多数を与えるであろうことは疑いなかった。にもかかわらず、スターリンは全国を通じて沈黙の抵抗の圧力を感じ、大会はカンフル剤を必要としていると感じた。この興奮剤は公的な党史で「広東コミューン」と呼ばれる出来事によってもたらされた。
 4−5月の蒋の方向転換の直後、破局の中から何を引き揚げることができるか確認するために、スターリンは彼の支持者を中国に派遣した。そのなかにドイツ人ハインツ・ノイマンがいて、彼は当時熱烈にロシアの新指導者に献身していた。スターリン指導下の中国の壊走から第15回大会代議員の気持ちをそらせるために、彼は広東で一連の特別な花火を打ち上げることができた。
 革命が台頭していた時期、中国共産党はスターリンの指令に一言一句したがい、第2の尻尾のように自らを国民党に結び付けてきたが、時がやってくると蒋は望まれざるこの付属物を切り落とした。いまや革命は破産し、数万人の中国人共産主義者が殺されると、スターリンは「左」に舵を切った。8月の党協議会で、古い指導部は否定され(モスクワからの指令にあまりにも忠実にしたがったために)、新しい指導部がただちに反乱を準備するよう指示された。
 中国革命が頂点にあった時期、スターリンは国民党のような組織があればソビエトなしで済ますことができると宣言していた。1927年になると、いまや彼はソビエトを指示したのだった。オーダーメイドの「広東コミューン」は蒋が血の海に沈めるまでの間、ちょうど3日間続いた。ノイマンとロシア人の彼の友人たちは逃亡したが、広東の共産主義者は第15回等大会の壁を革命的スローガンで飾るために自らの生命を支払った。1928年7月の遅きになって、プラウダは「中国共産党は暴動の先頭に立っている。中国の全体情勢はこれが正しい路線だという事実を物語っている」と書いた。
 第15回党大会は1927年2月に開催され、2週間以上続いた。大会には898人の代議員と771人の代議員候補が出席し、約89万人の党員と35万人の党員候補とを代表した。代議員の半数(898人中449人)が党大会初参加だった。彼らは大会手続きのボリシェヴィキ的リアリズムを評価する基準をもっていなかった。公的報告が指摘するように、「カードル層の完全な一新」がなされた。代議員のなかの党職員の比率は、第14回大会の70%から45%へと減少した。労働者は5%から18%に増加した。1917年以前から在籍する代議員は第14回大会の59%から38%となった。
 公的数値によると、72万4000人の党員がスターリンに投票し、1%に満たない4000人が反対派に投票した。GPUはその仕事を上首尾にやった。しかし以前と同様、その地位を強制された代議員で占められる多数派は決定的とは言えなかった。大会初日、トロツキーもジノヴィエフも彼らの敗北の深さを認識しなかった。彼らはいずれも代議員のいくらかに影響を及ぼし、彼らの明白な壊走から労働者階級の少数派を救い出すという幻想を維持していた。反対派が党の規律に従うと誓う限り、これは可能だと感じられた。大会はこのため反対派ブロックが忠誠を誓う公式声明とともに始まり、スターリンはこれをただちに「完全な武装解除」と性格づけた。
 スターリンは中央委員会に報告を行った。彼には適切な後ろ盾が与えられた。「元ウクライナ反対派」クリチェフスキーの文書が回覧された。クルプスカヤは反対派ブロックに反対の発言を行った。ブハーリンはレーニン書簡から引用した。スターリンは彼の攻撃を反対派の「党の団結」要求―すなわち、党内での合法性という要求に集中した。彼は反対派ブロックがさまざまな労働者反対派、マスロ−・フィッシャーグループに分裂していると指摘した。彼はトロツキーとジノヴィエフの相違―古いもの新しいもの、現実的なもの幻想的なもの、個人的なもの政治的なもの、を繰り返し強調した。反対派にたいする全体的にもっとも激しい攻撃にもかかわらず、オールドボリシェヴィキに比してトロツキーがいちばん犯罪的だという示唆が底音として響いていた。
 トロツキーにいちばん近い友人であるラコフスキーが演壇に立った時、彼は騒然たる怒号で迎えられた。「恥知らず! 分裂者! 反革命!」―絶えざる叫び声が彼の発言を妨げた。ラコフスキーの主張は騒音で聞き取れなかったが、時間の延長は許されなかった。彼の演説はヤジの爆発でかき消されて終わった。「党をやめろ! やつらを演壇から引きずり下ろせ! 演壇はメンシェビキのためにあるんじゃないぞ! やつを引きずりおろせ! やつを引きずりおろせ!」
 イェドキーモフはジノヴィエフのような指導者の追放に反対して発言した。「プレハーノフも指導者だったが道を踏み外したぞ!」という叫び。レニングラード代議員のキーロフはラシェヴィッチと彼の「山上の説教」をあざけった。森の中での集会を彼はそう呼んだのだった。彼は、サファロフがレニングラードのナルバ地区における非合法集会を指揮したのだと言って彼を指差した。
 その時カーメネフが演壇にやってきて反対派ブロックの合法性を維持する最後の試みを行った。彼は反対派が第2党を結成しようとしたのか?という問題を語った。反対派の中でもジノヴィエフ―カーメネフ・グループのような古参だけがこうした計画を実現する能力をもっており、彼らがトロツキーよりましな扱いを受けていたのもこれが理由だった。カーメネフは他の演説者よりもヤジが少なかった。ある程度、彼の話は聞くことができた。われわれは第2党を組織しようと望んでいない、と彼は言った。われわれはソビエト連邦への危険ゆえに和解する。反対派は党内に少数派を形成し、われわれが和解を求めた時、党を救い、国家を救う適切な方策を提起したのだ。われわれは苦い闘争をたたかったが、多数派の意思に自らをしたがわせようと思う。
 カーメネフは反対派の逮捕に強く抗議した。
われわれが自由の身でありながらマルチコフスキーのような人間が獄中にいる状況を続けてはならない。われわれはこれらの同志たちと共にたたかった。われわれは彼らの行動すべてにたいして責任を負っている・・・われわれを彼らから引き離すことはできない。これが今の状況だ。もし諸君らがわれわれを引き離そうとするなら、諸君らはわれわれの敬意を失うだろう。〔声:われわれは10・16以来、お前に経緯など持っていない〕
 カーメネフの態度は威厳があった。彼は反対派の政治声明を否認せず、その合法的地位を守るためにたたかった。代議員は再び反対派と妥協するようにという含蓄をもった彼の提起は受け入れられなかったが、彼は代議員に感銘を与え、少なくとも何人かの反対派がただちにシベリア流刑になることは阻止した。
 古参が合法的な演壇から最後に話した時はスターリンにとって危険な瞬間だった。スターリンが熟知するように、カーメネフは最後までレーニンにもっとも近しい個人的友人だった。死に臨んだレーニンは、トロツキーを唯一の連絡役として、カーメネフがレーニンの著作を編集するよう、さまざまな任務とともに伝言した。こうして、カーメネフを党から追放することは、革命的過去と断絶するだけでなく、レーニンという人格との決別をも象徴していた。無制限の権力に向かう試練として、これはスターリン主義のゴロツキどもを一瞬立ち止まらせた。
 カーメネフが与えた印象を破壊するため、彼の後ただちにルイコフが壇上に上がった。
同志カーメネフの演説の本質は、トロツキー主義の非合法党中央による決定の所産である。この演説から明らかなのは、反対派の中央委員会は降伏したのではなく、将来的な党内での合法性を確保し(変わることのないメンシェビキ的イデオロギーも維持する)、彼らの非合法活動を覆い隠すことを決定したのだ。〔聞け! 聞け!〕これが同志カーメネフの演説の唯一論理的な説明である。
 演説の最後の部分で、ルイコフは特にトロツキーのクレマンソー理論を攻撃し、彼をトロツキーから分裂させようと試みた。反対派は3つに分かれており、それぞれの内部で討議し、その後合同の協議を行っている。彼らは自己のグループの規律を党の規律よりも高い位置に置いている、と彼は言った。
彼らは党と政府に反対するこれらの街頭デモで政府を打倒しようとしたのだということを理解していないのだろうか? ・・・彼らは事実上、内戦と通常は呼ばれるものを組織したのだ。
 スターリン主義者の発言者は全員、党規律を受け入れるという新たな声明は許容できないと強調した。マヌーバーの時期は過ぎた。求められているのは完全な降伏だった。このメッセージは反対派より以上にスターリン自身のグループ内で躊躇している者に向けられていた。
 党内で合法性を確保するという幻想はたちまち完全に消え去った。いまや問題は、反対派指導部がロシア国内外の支持者との連絡を断ち切られるシベリアへの追放をいかにして避けるか、だった。反対派を粉砕する過程のこの時点で、われわれはスターリン主義者の奇妙な性格に出くわした。反対派ブロックは、口頭では完全に敗北し、大会決議でも打ちのめされていたが、降伏条件を交渉するように指導者その人【=スターリン】から持ちかけられた。党の規律という偽装の下、今では解体したブロックの個々人が、なおも動揺している人々への勝利を強化するように誘いかけられた。こうした交渉は、常に復党の約束をエサとしており、10年後にも繰り返されたが、この時もほとんど同じ人々が、完全な自白を引き出すために囚人房からクレムリンへ連れて行かれた。
 第15回大会が終了する前、スターリンは率直な申し出を行った。もし降伏が完全で十分ならば、党からの追放は一時的なものにとどまるだろう―復党が後に検討される―、そして反対派指導者はモスクワにとどまることが許されるだろう。この申し出に直面して、反対派は2つに分裂した。トロツキーは拒否した。こんな声明は、反対派勢力を士気阻喪させるだけでGPUのテロには無力だと彼は言った。ジノヴィエフ・グループは新たな執行猶予を勝ち取ると決めた。大会の後半には2つの反対派声明が提起された。政治問題では彼らの言葉はほとんど同じだった。ジノヴィエフとカーメネフは党への降伏宣言を追加した。スターリンはゴールに達した。反対派ブロックは完全に分裂した。
 第14回大会は反対派を一括して追放した。大会は以下を決議した。
中央委員会と中央統制委員会に以下の通り指示する。反対派の指導的メンバーで党から追放された者の【再入党】申請について、個人的に服従しない限り受け付けないこと。彼らが服従してから最低6ヶ月を経ない限りかかる申請について決定を行わないこと。以下の条件による。1)彼らが提出した声明の処置は、これらの声明の筆者による宣誓の扱いと同様とする。2)元反対派の声明は第15回大会の要求に十分に踏まえていること・・・それゆえに9月3日に提出された83人声明および15人声明の否定にもとづいていること。
公的機関の数値によると、2500人以上が反対派を否定する声明を提出した。
 ジノヴィエフとカーメネフが新たに息継ぎの余地をかちとろうと試みたことで、トロツキーは代価を払わねばならなかった。スターリンはすぐに反対派ブロックの分裂につけこみ、トロツキーを特別厳しく扱ってやり玉にあげた。こうしてジノヴィエフの抜け目ない計算は目的を達することなく失敗した。国家権力にもっとも危険な敵対者を排除することができたので、スターリンだけが分裂による利益を得た。
 トロツキーは、アルマ・アタに追放される予定だとGPUに通告された。ここは中国国境沿いにあって、モスクワから2500マイル、最寄りの鉄道駅から150マイル離れていた。彼が出発を予定していた1月6日、最寄りの鉄道駅で同情デモが行われたため、彼の出発は延期された。この事件は、GPUも弾圧することができず、政治局はほとんどパニック状態に陥った。もしトロツキーがモスクワに留まれば、GPUによってつくられた大会での全会一致など彼らの眼前で融解するだろうと彼らは恐れた。トロツキーの報告によると、個人的な見送りを組織したブハーリンのことをスターリンは悪魔のように非難した。GPU職員がアパート内で完全に孤立しているトロツキーを強制的にアパートから連行した。唯一抗議したのは息子のセドフで、彼は「やつらが同志トロツキーを連れ去ろうとしている!」と叫んだ。トロツキーは郊外の駅から出発し、出発した列車が誰を運んでいるのか誰も知らなかった。
国際左派がベルリンで会合
 ロシア党内でのこうした闘争と平行して、マヌイルスキーとドイツ左派との闘争もそのクライマックスを迎えようとしていた。ドイツ問題だけでスターリン主義党とさまざまな左派共産主義グループとの相違点を別党建設の基礎とするには、1927年の時点では不十分だった。それどころか、労働組合と社会民主党との関係について、国民投票について、帝政派との闘いについて、スターヘルムその他民族主義組織については基本的な協定が存在した。2つのグループの闘いは、にも関わらず先鋭だった。スターリンの指示により、ロシアで遂行された粛清はドイツやコミンテルンのあらゆるところで繰り返された。1927年の初め、約1300人の職員が追放された。重要な地区組織はまるごと党から放逐された。ハノーバー、ハンブルグ・シフベック、フランクフルト・アン・デア・オーデル、ラーテナウ、シューニデミュールなどなど。あらゆる支部が追放によって破壊された。特にドルトムント、エッセン、ハン、コロン、デュッセルドルフ。マンハイム、パラティネイト、東プロシアも同様だった。
 こうした追放は党を揺るがし、多くの分派や小集団へと解体した。1927年2月のエッセン大会当時、党内外には右から左まで10の共産主義グループが存在した。(1)ブランドラー派。このなかにはパウル・ベッチャー、ヤコブ・ヴァルヒャー、ロッシ・ヴォルフシュタイン、アルトゥール・ローゼンベルグがいた。(2)アーネスト・マイヤー派。ブランドラー的傾向のより融和的な一派。(3)党官僚グループ。ヴィルヘルム・ピーク、ワルター・ウルブリヒト、アルトゥール・エーベルト、ハンス・ファイファー。(4)テールマン派。フィリップ・デンゲル、ハインツ・ノイマン、エルンスト・シュニーラー、テオ・ノイバウエル、ハインリッヒ・シスキント、カール・フォルクを含む。(5)チェムニッツ左派。パウル・ベルツが指導し、ベルリンとコロンにも支部をもっていた。(6)左翼反対派。アルカディ・マスロー、フーゴ・ウルバーンス、ルート・フィッシャーが指導。(7)パラティネイト極左派。ハンス・ウエーヴェルが指導。(8)極左派。パウル・ケッテルが指導し、主要にはベルリン郊外のプロレタリア地区ウェディングで強力だった。(9)カール・コルシュの極左グループ。(10)エルンスト・シュワルツの極左グループ。主にベルリン。これら分派や小集団は一部は見せかけだけの産物だった。特にウェーベルとケッテルのグループはマヌイルスキーのお手製だった。主要な相違点はわずか3点しかなかった。右翼は社民党との密接な協力を望んでいた。中央派はモスクワとの密接な協力を望んでいた。左翼はドイツ共産党の政策がシュトレーゼマンからもスターリンからも独立することを望んでいた。
 マヌイルスキーはエッセン大会前に実質的に分裂を達成しており、大会はそれまでになされたことを打ち固め、完遂するものだった。18ヶ月にわたる苦い闘争と数千人の粛清にもかかわらず、133人のうち10人の左派代議員が残っていた。大会で左翼反対派の最後の代表が追放された。マヌイルスキーは、モスクワのボスが反対派ブロックの敗北を打ち固めることができたよりも先立つこと10ヶ月前にベルリンでの仕事を終えた。
 反対派が18ヶ月にわたって追放され、さまざまな小グループがそれぞれに長ったらしい宣言であらゆる問題に答えようとしたので、情勢が要求する彼らの間の団結は阻害された。時には国会議員が連合して働いたこともあったが、これを越える共同行動は少なかった。こうした反対派のバラバラ状態は、一部はモスクワの操作による産物だったが、コミンテルンのあらゆる党で繰り返された。2年後、国際右翼反対派は、ブハーリンの指導によって、同じやり方で解体された。なおもスターリン主義党の神秘主義に半ば拘束されて、反対派は不器用な策略を続けた。彼らは痛い目にあって、こんなふうに全体主義権力と闘ってはならないのだと学ばねばならなかった。
 1927年の夏と秋の間中、われわれはヨーロッパ左派を統合し、モスクワで行われた第15回党大会と同じ時期にインターナショナル協議会をベルリンで準備しようと試み続けた。11月半ば、ジノヴィエフ派のサファロフがイスタンブールから到着し、ヨーロッパ左派の組織化のペースが遅いといってトロツキストやソルンツェフを批判した。これからは、物事を速やかに進めなくてはならない。われわれは12月初頭に会合した。そこにはさまざまな大使館や事務所から来た約20人のロシアの同志、ほぼ全ヨーロッパから集まった各国の左翼分派代表がいた。
 協議会の議長としてサファロフがその背景について報告を行った。彼は・・・新たなインターナショナルがただちに組織されなくてはならないと発言した。サファロフ報告の半ばで、彼はモスクワからの電報を手渡された。サファロフは真っ青になった。目に見えて自分をコントロールしようと努めつつ彼は報告を続けたが、その内容を完全に変えてしまった。彼は今や党の規律の必要性を強調し、その断絶をあまりに上手く隠したために、代議員の何人かは何が起きたのかまったく理解できなかった。近いうちに新たな降伏があるのではないかとマスローが尋ねて報告をさえぎった。サファロフはこれを否定した。しかしながら、彼とマスローが書いた宣言は、新しいインターナショナルの結集点として協議会が公表する予定だったが、決して署名されることはなかった。事実上、ロシアでの反対派ブロックの終焉は、同様にヨーロッパ共産主義左派の終わりだったのである(44)。
(原注44:左派の敗北は後のヨーロッパ労働者の全般的敗北の典型となった。コミンテルンにおける彼らの経験は、テロリスト一党国家の性格、どのようにこうした体制がつくられるのか、社会主義組織にたいする含蓄を教えた。概して社会主義者はヒトラーの後になってやっと教訓を学ばねばならなかった。
 1年か2年の間、左翼共産主義者は独立したグループとして存在し続け、その後は小集団へと分裂した。ジノヴィエフとの連絡は、次第に危険となって回数も減ったが、1933年まで続けられた。唯一の道はドイツにおける別党しかないというメッセージを、シュコルフスキーが何度もベルリンに伝えた。しかしこれは遅すぎた。1929年以降、ブハーリンがスターリンに降格させられた時、彼もドイツに援助を要請してきたが、ナチスが権力へ上り詰めようとし始めた後では、第2の共産党をつくるチャンスはもっと少なくなっていた。
 左派のあるグループは共産党に再加盟した。他は社民党に加わったり、労働組合で活動的になった。台頭するナチスへの全般的な抵抗のなかで、左翼共産主義者は際立った底流をなし、自らの経験にもとづいてナチス体制の危険を警告することができた。1933年以降、強制収容所のなかで彼らの多くが新世代のトロツキスト―テールマンの政策にたいするトロツキーの批判に惹きつけられた労働者や学生―と出会った。
 左派の際立った指導者の一人、ヴェルナー・ショーレムは、強制収容所で何年も過ごし、最後は殺されたが、彼は多くの指導者の中でももっとも卓越していた。ハインツ・ランゲルハンスは反ナチのリーフレットをガリ版で刷っていてベルリンで捕まり、ブランデンブルグおよびザクセンハウゼンのキャンプに6年監禁された。1936年には元KAPDの指導者で当時社民党員だったカール・シュレーダーが地下組織ローテ・ケンフェル(「赤い兵士」)の指導者として連行された。1937年、ベルリン・シャルロッテンブルグで、カール・ヒッペルが指導するグループが長期刑を言い渡された。
 ソビエト版はこれよりはるかに不完全なリストしかない。1937年、最後の合法的なドイツ中央委員だったハインツ・ノイマンとヘルマン・レンメレがロシアで殺された。ナチ・ドイツとスターリン主義ロシアにおけるドイツの反対派共産主義者へのテロは平行したというだけでなく、2つの警察機関の間には協力も存在した。エミール・クルシュの話が特徴的だが、彼は1928年ゴーリキーに移住した工具製作者だった。1937年、Hoelziteの汚名を着せられ、彼はNKVDからゲシュタポに引き渡され、ゲシュタポが彼をザクセンハウゼンの強制収容所に送り込んだ。)